これからは月は堕ちない第1話
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「院長先生、今回の蔵原市の研究プロジェクトに参加することに決めました」
入江月乃(いりえ つきの)の声は揺るぎなく、眼差しには一片の迷いもなかった。
物理研究院の院長は顔を上げ、鋭い視線で彼女を見つめた。
「本当に決めたのか?行けば、少なくとも十年は戻ってこられないかもしれんぞ」
月乃は一度目を伏せ、そしてゆっくりと顔を上げた。その手には、すでに準備された申請書が握られており、迷うことなくそれを差し出した。
院長はしばし沈黙し、熟考の末、印を押した。
「七日後、手続きが完了したら、迎えを手配しよう」
背を向けて立ち去ろうとしたその瞬間、月乃はスタッフたちがひそひそと話している声を微かに耳にした。
「ねえ、あれって東条奥さんじゃない?研究基地って、すごく辺鄙な場所らしいよ。十年は戻れないかもしれないって……東条社長がそんなの許すと思う?」
月乃が部屋を出た時、その瞳には、自嘲と哀しみが滲んでいた。
一桐市では誰もが知っていた……東条優成(とうじょう ゆうせい)は入江月乃を深く愛していたと。彼は命を賭けてでも、彼女を守ろうとしていた。
そして彼女自身も、優成と共に一生を過ごそうと思っていた。
しかし、一ヶ月前、彼がなんと彼女の学生の一人と関係を持っていたことを偶然知ってしまったのだった……
* * *
「院長先生、今回の蔵原市の研究プロジェクトに参加することに決めました」
入江月乃(いりえ つきの)の声は揺るぎなく、眼差しには一片の迷いもなかった。
物理研究院の院長は顔を上げ、鋭い視線で彼女を見つめた。
「本当に決めたのか?行けば、少なくとも十年は戻ってこられないかもしれんぞ」
月乃は一度目を伏せ、そしてゆっくりと顔を上げた。その手には、すでに準備された申請書が握られており、迷うことなくそれを差し出した。
院長はしばし沈黙し、熟考の末、印を押した。
「七日後、手続きが完了したら、迎えを手配しよう」
背を向けて立ち去ろうとしたその瞬間、月乃はスタッフたちがひそひそと話している声を微かに耳にした。
「ねえ、あれって東条奥さんじゃない?研究基地って、すごく辺鄙な場所らしいよ。十年は戻れないかもしれないって……東条社長がそんなの許すと思う?」
「一桐市じゃ有名な理想の夫婦だもんね。東条社長は昔、理科のトップだったけど、月乃さんのために一年間浪人生までしたって聞いたよ」
「そうそう、三年前に月乃さんが重病になった時も、東条社長は迷わず腎臓を一つ提供したんだよ。
それに今、二人をモデルにした映画まで公開されるってのに、彼女が蔵原市に行くなんて……東条社長、きっと発狂するんじゃない?」
月乃が部屋を出た時、その瞳には、自嘲と哀しみが滲んでいた。
一桐市では誰もが知っていた……東条優成(とうじょう ゆうせい)は入江月乃を深く愛していたと。彼は命を賭けてでも、彼女を守ろうとしていた。
二人は若い頃に出会い、互いに支え合いながら歩んできた。優成の愛は時を経るごとに深まっていった。
この十年間、月乃はまるでお姫様のように優成に甘やかされてきた。彼女は一度もキッチンに立ったことがなく、下着ですら優成が手洗いしてくれていた。
プロポーズの年、月乃は肺炎で入院し、なかなか快方に向かわなかった。
優成は焦り、ついには寺の前で一ヶ月間も膝をついて祈り続け、頭を地面に打ちつけてでもお守りを求めた。
膝が立たなくなるまで跪きながら、彼はこう言い続けていた。
「神様、どうか俺の月乃を守ってください。もし彼女が無事でいられるのなら、この世の病気も痛みも、すべて俺に与えてください。彼女さえ健康でいてくれれば、俺の身体が動かなくなっても、死んでもかまいません」
病床の月乃はその言葉を聞いて、涙を流しながら思った……彼に出会えたこと、それこそが孤児である自分にとって最大の幸運だと。
だから彼女は決めた。残りの人生を、彼と共に歩もうと。
けれど……
一ヶ月前、月乃は思いもよらぬ事実を知ってしまった。
「愛してる」と口にしていたその男が、かつて彼女の教え子だった女と関係を持っていたことを。
彼は月乃が何も知らないと思い込み、次第に大胆になっていった。車の中、寝室、ソファ、そしてバルコニーにまで、二人の痕跡を残していた。
その真実を知った瞬間、月乃は崩れ落ちる寸前だった。そして最終的に、その残酷な現実を受け入れるしかなかった。
月乃は決断した。離れるのだと。
物理学の教授である彼女は、自ら蔵原市の研究プロジェクトへの参加を申し出た。
十年か、それ以上かもしれない。彼女は優成にもう二度と見たくない。
家の前に車を停め、月乃が暗証番号を入力しようとしたその時、聞くに堪えない声が家の中から聞こえてきた。
「優成、私と奥さん、どっちが優しいと思う?」
「もちろん、君が一番優しいよ。でも、心愛ちゃん、覚えておいて。もし妻にバレたら……絶対に許さないからな」
胸を引き裂かれるような痛みの中、月乃は涙を堪え、暗闇に身を隠し、夜が訪れるまで家に入ることなく静かに外で待った。
家の中は、料理の香りで満ちていた。優成がスープを持ってキッチンから出てくると、彼女の姿を見て目を輝かせた。
「月乃、帰ってきたんだね!今日は遅かったね。一人で家にいると、君が恋しくてたまらなかったよ」
彼は急いで駆け寄り、彼女の手を取ってにっこりと笑った。
「ほら、こっちに来て。君をびっくりさせたいんだ」
月乃は嫌悪感をなんとか抑えながら、ようやくテーブルに近づいた。そして目は自然と、精巧な箱に引き寄せられた。
だが視線はどうしても、ゴミ箱に向かってしまう。その中には、くしゃくしゃになったティッシュが見え、彼女の胃は再び強烈な吐き気に襲われた。
「これは俺が手作業でデザインしたネックレスなんだ。名前は『明月』。世界でただ一つだけ。だって君は、俺の心の中で唯一無二の存在だから」
優成は優しく語りながら、ネックレスを取り出して、彼女の首にかけようとした。
月乃は冷ややかな目で彼を見つめるばかりで、込み上げる不快感を抑えることができなかった。
どうしてこの男は、「愛してる」と言いながら、別の女と寝られるのだろう……彼女はそう思った。
「月乃、これ、つけてあげるよ。月乃は俺のたった一つの月だ。これからも、ずっと一緒にいよう。月乃がいなくなったら、俺、生きていけないよ」
優成は、まるで彼女が突然消えてしまうのを恐れているかのように、ネックレスを彼女の首元へと近づけた。
月乃はその場に立ち尽くし、一歩も動かず、ただその姿を見守った。
その瞬間、本気で思った……
もし本当に彼の元を離れたなら、この男は言った通り、生きていけないだろうか……と。
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