この先は、あなたと歩かない第1話
この話は約1760字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
妊娠して、私は長年取り組んできた生命科学の研究から身を引いた。後を任せたのは、一から育てた教え子の水野莉奈(みずの りな)だった。
それ以来、莉奈は頻繁に家へ来るようになった。食卓では、夫と2人で研究データの議論に熱中し、私のことなど目に入らない。心血を注いできた私の研究なのに、今では口を挟む余地すらなかった。
その日の健診でも、2人は診察室の外で、周囲も気にせず子どもの名前を言い合っていた。
夫が振り返り、何でもないことのように言った。「莉奈は、この2つのほうが響きがいいって。どっちか好きなほうを選んで」
私は何も答えず、向き直って中絶の同意書に署名した。
そんなに気が合うのなら、もういい。あなたも、この子も、もういらない。
* * *
妊婦健診の日、私は夫の佐藤直人(さとう なおと)がいるすぐそばで、妊娠中絶の同意書に署名した。
直人は気づかなかった。教え子の莉奈と、子どもの名前を考えるのに忙しかったのだ。看護師が「佐藤紗月(さとう さつき)さんのご家族の方」と3度呼んでも、2人とも聞こえていなかった。
私が目の前まで行って、ようやく直人は顔を上げた。昼食は何にするかとでも聞くような調子で言う。
「莉奈が、この2つならどっちもいいって。好きなほうを選んで」
ふっと笑いがこぼれた。妊娠20週。お腹の子の名前を決めるのは、夫と私の教え子で、私の役目はどちらかを選ぶことだけ。よくできている。
この半年、胎教に流す音楽も、子ども部屋の壁の色も、粉ミルクのメーカーも、2人が私に代わって決めてくれたのだから。
私は直人のメモアプリを開き、並んだ2つの名前の下に1行書き足した。
【もう、選ばなくていい】
直人が眉をひそめた。何か言う前に、莉奈の携帯が鳴る。電話に出て十数秒ほど聞いただけで、彼女の顔色が変わった。
「佐藤先生、3番のサンプルでサイトカインの値がまた異常に上がっています。ベクターに問題があるのかもしれません」
直人は上着を取り落としそうな勢いで立ち上がった。
「研究室に戻ろう」
2歩ほど進んでから、私がまだここに座っていることを思い出したらしい。
「紗月、運転手に送らせるよ。研究が大事なところなんだ。あとの検査は1人で受けてきて」
少し膨らんだお腹に手を当て、私は尋ねた。
「今日が何の日か、覚えてる?」
直人は携帯に目を落とした。
「木曜日だろ」
私はそれ以上、何も言わなかった。今日は5回目の結婚記念日で、医師が子どもの4D超音波検査を予定していた日でもあった。
この検査のために、1か月前から直人のスケジュールに入れておいた。
昨夜も寝る前に、研究室で何が起きても、今日だけは私を1人にしないでと頼んだ。
直人はパソコンを抱え、メールを返しながら、顔も上げずに「わかった」と答えた。
確かに、わかってはいたのだろう。ただ、大事だとは思っていなかった。
隣で莉奈が、申し訳なさそうな顔をした。「師匠、すみません。今は佐藤先生がいないと研究が進まなくて。よかったら、私が残りましょうか?」
残ると言いながら、その手にはもう直人の上着があった。
莉奈の手首に光るシルバーの腕時計から、しばらく目を離せなかった。直人の30歳の誕生日に私が贈った、限定モデル。裏蓋には、私たちが初めて会った日付が刻まれている。
2か月前、直人はメンテナンスに出したと言っていた。預け先は、莉奈の手首だったわけだ。
私の視線を追った直人が、一瞬、気まずそうな顔をした。「クリーンルームでは携帯を見づらいから、時間を測るのに貸しただけだよ。変に考えないで」
まだ何も聞いていないのに、もう彼女をかばう言葉が出てくる。
莉奈は慌てて時計を外した。「師匠、誤解しないでください。佐藤先生が、どうしても着けていてほしいって……」
「どうしても」。かすかな声なのに、その言葉だけがやけにはっきりと耳に残った。
私は時計を受け取り、親指で文字盤を拭った。莉奈のハンドクリームの甘い香りが、まだ残っていた。
「誤解なんてしてないよ」
時計を直人に渡して、2人に笑いかけた。
「戻って。実験を待たせたら悪いから」
直人はほっとしたようだった。
「紗月、やっとわかってくれたんだね」
そのとき、お腹の中がかすかに動いた気がした。赤ちゃんが蹴ったのかもしれない。まるで、ママはいつまで我慢するの、と問いかけているみたいだった。
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