この先の人生に、君はいらない第3話
この話は約2207字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
春加は、早朝に出かけて深夜に帰る生活を始めた。
俺は昼間、持ち出す荷物を整理していた。顔を合わせることも、すっかりなくなっていた。
荷造りを終えようとしていた時、唐突に春加から電話がかかってきた。
画面に浮かぶ名前を見つめながら、俺はしばらく迷った。それでも、通話ボタンを押す。
「何か用か」
春加は相変わらず、事務的な口調だった。
「服が濡れたの。クローゼットの一番右にある着替え用の黒いスーツ、持ってきて」
俺は、返事をしなかった。何気なく、そのスーツを手に取った。ポケットの中に、何か硬いものが入っていた。
息が、止まった。
電話の向こうで、春加が小さく笑った。気だるげな声音だった。
「ふふ……気づいた?」
俺は一瞬固まってから、それを取り出した。
指輪だった。
強く握りしめると、手のひらに食い込むほどだった。声も、掠れていた。
「君……」
春加の口調は相変わらず平坦だったが、声のトーンだけが少し上がる。
「気に入った?」
心臓が跳ね上がり、嫌な汗がにじむ。唇を開きかけたが、すぐには言葉が出てこない。
胸の底から、言いようのない感情がこみ上げてくる。
「どうして、こんな……」
その時、電話の向こうから声が聞こえた。
「光司に感謝しなさいよ。彼のアイデアなんだから。
優しい子でしょ。あなたにちゃんと謝って、許してもらったほうがいいって言ってくれたの。彼の顔を潰すわけにはいかないから」
俺はその場で固まった。頭からいきなり冷水を浴びせられたような感覚が広がる。
芯まで、冷え切っていく。
手の中の指輪を見つめたまま、喉の奥だけが焼けるように熱かった。
胸元の服をきつく握りしめ、呼吸が浅く速くなる。
「春加、そこまで俺を辱める必要があるのか」
しばらくの間、向こうから返事はなかった。やがて、春加のくぐもった囁き声と、光司の微かな吐息が、電話越しにかすかに届いた。春加の声は、優しかった。
「ちょっと……っ。今はダメ」
その声には、明らかに情欲の色が滲んでいた。
全身が震え、俺は思わずきつく目を閉じる。
春加にまだ期待していた自分自身が、滑稽で仕方なかった。
けれど俺の知る春加は、確かに夜の営みには淡白な人間だったはずだ。
しばらくして、再び春加の声が届いた。
「指輪、見たでしょ。これで満足した?
満足したなら、意地を張らないで。何日も口をきかずに私を避けて……慎吾、このまま意地を張っても、何もいいことなんてないから」
一拍置いて、春加は続けた。
「もしそれで納得するなら、これからは……触れ合う時間を1時間、増やしてあげてもいい」
俺は信じられない思いで、目を見開いた。
「春加、君は……何を言ってるんだ!」
春加の返事は聞こえず、代わりに光司の声がした。
「社長、その指輪で慎吾さんの機嫌を取ったら、僕にくれるって言ってたよね?
いつ持ってきてくれるんだ……?
だって、僕の名前も刻んであるんだよ」
俺の体が、びくりと強張った。手の中の指輪が、火傷しそうなほど熱く感じられる。
俺はうつむいた。案の定、指輪の内側には「K.N」の刻印があった。
光司の名前の頭文字だ。
全身に鳥肌が立った。もう、抑えが利かなかった。
「春加、お前……どこまで気持ち悪いんだ!」
春加の声が、すぐさま低く沈んだ。
「慎吾、ちゃんと機嫌を取ってあげたでしょう。まだ何が不満なの?
私が気持ち悪い?あなたのほうから求めてきた時は、気持ち悪くなかったの?」
俺の目は、焦点を失っていた。唇を動かそうとしたが、その場に立ち尽くしたまま、何ひとつ言葉にならなかった。
続けて、光司をあやすような春加の声が聞こえてくる。
「はいはい、これはとりあえず彼に渡しておくから。
今度、もっと大きいのを買ってあげる」
光司は駄々をこねるように、不満を漏らしている。春加はさらに続けた。
「頑張って働いてくれさえすれば、欲しいものは何でも買ってあげる。ね?」
俺は思い切り指輪を床に叩きつけた。涙が、頬を伝って落ちていく。
「春加!お前は……どうしてここまで俺を踏みにじれるんだ!
昔、自分が言ったことを、覚えてるのか?」
結婚した時、春加は確かに俺の腕の中に身を寄せていたはずだ。そして、こう言った。
「安心して、慎吾。一生、あなたに優しくするから。
将来子供ができたら、あなたみたいに格好いい子になってほしいな」
なのに、今は。
声もなく震えながら、俺は気づいた。電話は、とうに切られていた。
スマホが床に滑り落ちる。呼吸すら、まともにできなかった。
次の瞬間、リビングの方から物音が聞こえてきた。俺は勢いよくドアを押し開けて外に出る。
そこでは、業者たちがウェディングフォトを壁に飾っている最中だった。俺を見ると、新郎だと思ったのか、にこやかに声をかけてきた。
「ご結婚、おめでとうございます!」
「本当に奥さまに大切にされてるんですね。この写真も、かなりこだわったんでしょう?」
「こんなに立派に揃えて、おふたりとも本当にお似合いですね」
俺は写真を見た瞬間、目を見開いた。ウェディングフォトに写る女性は、確かに春加だった。けれど、隣に立っている男は……俺ではなかった。
俺は自嘲気味に口の端を歪めた。
「ええ、そうでしょうね。彼女、不倫相手にはずいぶん気前がいいですから」
その場の空気が一瞬凍りついた。事情を察した業者たちは、気まずそうに口をつぐんで、気まずそうに詫びた。
俺は再び、春加へと電話をかけた。
「家に、飾られてたぞ。
春加、そこまで俺を辱める必要があるのか?」
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