この先の人生に、君はいらない第1話
この話は約2256字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
妻の津守春加(つもり はるか)は、もともと夜の営みには淡白なほうだった。時間にも、几帳面すぎるほど厳しい。
今日も、そうだった。
行為の最中、彼女のスマホが震えた。画面には、彼女が特別な愛称で登録している相手からの着信が表示されていた。見なくても、誰からなのかは分かっていた。
耳に押し当てた電話口から、彼女の秘書、永沢光司(ながさわ こうじ)のすねたような声が漏れてきた。
「社長……夢に社長が出てきたんだ。胸が、苦しくて」
その一言で、春加は迷いなく俺から体を離すと、服を身につけて起き上がった。
俺、津守慎吾(つもり しんご)は唇を噛み、とっさに彼女の腕を掴んだ。
「もうこんな時間だぞ。まだ、途中……っ」
「光司はひとりであそこにいるの。頼れる人もいないわ。私は彼の上司なんだから、放っておけないでしょう」
こちらを見もせず、春加は静かに腕を振りほどいた。そのまま鏡へ向き直り、口紅を引き直す。
「今日のノルマは、これで終わり。
足りない時間は、また今度埋め合わせるから」
俺は息を呑んだ。
そうか。俺たちの間にあったものは、彼女にとって最初から「ノルマ」でしかなかったのか。
春加が出て行ってから間もなく、光司からメッセージが届いた。
添えられた写真には、春加の肩にもたれかかる彼の姿が写っている。
【慎吾さん、本当にごめん。ただ、失うのが怖くて仕方なかったんだ。今度こそ、社長にちゃんと埋め合わせしてもらうから。
今日のところは、疲れてるだろうから、おもちゃで我慢しといて】
最後まで読んでも、俺は一言も発さなかった。
起き上がり、無言のままシャワーを浴びる。シーツを剥ぎ取り、ゴミ箱へ放り込んだ。
新しいパジャマに袖を通しながら、俺は心の奥底で静かに決めた。
春加はもう、いらない。
* * *
時計の針が何度も回った頃、ドアノブがかすかにカチャリと音を立てた。
春加が、帰ってきたのだ。
相変わらず、俺の方を見ようともしない。バッグを壁のフックにかけると、そのままベッドに倒れ込むようにして眠りに落ちた。
体には、見知らぬ男物の香水の匂いがまだ残っていた。
寝返りを打った瞬間、春加のスマホが鳴り続けていることに気づいた。手に取ると、光司からのメッセージだった。
【社長、今日は駆けつけてくれてありがとう。
慎吾さん、怒ってないよね?今度ちゃんと直接謝りに行くから】
画面を見下ろしたまま、思わず指の関節をこわばらせた。
指先をわずかに動かし、画面を上へ軽くスワイプした。
ふたりのやり取りは、あからさまに親密だった。春加の返信頻度も、普段とは比べ物にならないほど高い。俺に向ける、あの氷のような冷たさが嘘のようだった。
喉の奥が締めつけられるのを感じながら、静かに打ち込んだ。
【彼女は眠った。俺も怒っていない。
また明日、連絡してやってくれ】
画面を消し、スマホを枕元に戻す。枕を抱え、ゲストルームで眠ろうと、きびすを返した。
その時、手首を強く掴まれた。肌に伝わる体温が、やけに生々しい。
足が、止まった。
春加は目を閉じたまま、寝言のように呟く。
「光司……私、ここにいるから」
華やかで整った寝顔を見下ろし、俺は自嘲気味に口角を上げた。そのままそっと手を振りほどき、部屋を出た。
……
翌朝早く、部屋のドアが乱暴に開けられた。春加が袖をまくりながら、冷たい声で詰め寄ってくる。
「なんで光司にあんなこと言ったの?光司がまだ若くて、どれだけ繊細か、知らないわけじゃないでしょう。
そもそも、彼はただの新任秘書よ。いじめて何が楽しいの」
俺はゆっくりと瞼を上げ、怒りをにじませた春加の瞳を見つめた。
「ただの、秘書?
寝言で秘書の名前を呼ぶ上司が、この世のどこにいる?」
春加は一瞬、体を強張らせた。顔がわずかに引きつる。
「……っ。彼とは、ただの上司と部下の関係よ。
呼び慣れているだけ。夫のくせに、器の小さいこと言わないで」
俺は春加を見ないまま、ただ静かに頷いた。
「ああ、これからも好きなだけ呼べばいい」
春加は苛立った様子で、いきなり俺の腕を掴んできた。
「光司とは、やましいことなんて何もないわ。慎吾、いい加減にその嫌味な言い方やめて」
俺は目を伏せ、そっと腕を引き抜いた。指先で彼女の髪に触れながら、声のトーンは変えずに言う。
「やましいことはない、ね。よくわかった。
君はただ、部下の下着をわざわざ買ってあげる上司ってわけだ」
春加の背筋がぴくりと強張り、顔を青ざめさせた。深く息を吸い込む。
「彼は一度ここに泊まりに来たことがあるけれど、着替えを持ってきていなかったの。だから買いに行っただけで……」
俺の手が止まる。顔を上げた。
「随分と気が利くんだな。部下の下着のサイズまで把握してるとは」
実のところ、それ以外にも最近、おかしな点にはいくつも気づいていた。家には見覚えのないネクタイや髭剃り、そして片付け忘れた誰かの服まで置かれていた。ただ、俺がいちいち口に出さなかっただけだ。
春加は眉をひそめ、腕を組んで俺を一瞥した。
「慎吾、もう何度も説明したはずよ。
あなた、変わったわね。手がつけられないくらい、ひねくれちゃって」
言い終わるが早いか、春加のスマホがまた鳴った。深夜と同じ着信音だった。
俺は静かに口を開いた。
「行ってあげなよ。
行かないと、また俺のところまで押しかけてくるから」
どうせ、初めてのことでもない。
春加は口ごもり、今回だけは一瞬、躊躇いを見せた。けれど結局、背を向けて去っていった。
俺はゆっくりと息を吐き出す。視線を落とし、スマホの地図を見つめた。遠く離れた小さな街に、赤い丸が印されていた。
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)