この九年間の恋は間違いだ第3話
この話は約1985字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
朝食を買いながら会議する?ずいぶんと珍しいことだ。
そして朝の八時過ぎ、咲がまたSNSを更新した。
【指輪より朝ごはん。派手なサプライズも嬉しいけど、本当に心に沁みるのは、日常の中のささやかな愛情だったりする】
結構なことだわ。ダイヤの指輪も、朝ごはんも、彼女は両方手に入れたのだから。
せいぜいお二人で末永くお幸せに。
私は起き上がると、荷物をまとめ始めた。スーツケース一つに荷物をまとめるのに、それほど時間はかからなかった。
私のものは、もう多くない。捨てるべきものは、全て捨てた。
この家にはもう、私の生きた痕跡など、どこにも残っていない。
午後六時。之野が本当に帰ってきた。
約束を守るなんて、彼にしては珍しいことだった。
だが、私が実家へ帰る飛行機に乗るまで、もう十二時間しか残されていない。
彼はブランドの箱を持って、息を切らしながら私の前に立った。
「詩織、最近本当に忙しくて、すまなかった。これは、君へのプレゼントだ。九周年、おめでとう」
箱の中には、高級ブランドのバッグが入っている。確かに、私が「素敵ね」と言ったことのあるデザインだ。
けれど、お金で買えるブランド品と、心のこもった朝食、どちらが本当の愛情かなんて、私にだって分かる。
「ありがとう」私は、淡々とそれを受け取った。
之野はほっと息をついた。
「気に入ってくれると思ってたよ」
彼は腕を広げて私を抱きしめ、額に優しくキスを落とした。
「詩織、仕事が落ち着いたら、旅行に行こう。君、ずっと北極圏のオーロラを見たいって言ってたじゃないか」
「ええ」私は静かに頷いたが、もう彼の言葉を信じることはなかった。
オーロラを見たいというのは、まだ学生だった頃の夢だ。
仕事に追われるうちに、いつの間にか忘れてしまっていた。
これまで私が何気なく口にしてきた、ささやかな願いの数々を、彼は一つも叶えてくれなかった。
ほんの少し寄り添っていたが、之野はまたすぐに出ていこうとする。
飛行機の離陸まで、あと十時間。
私は彼の背中を見つめ、ふと、呼び止めた。
「之野」
彼は足を止め、振り返った。
「どうした?」
私は、彼のあの美しい瞳をまっすぐに見つめ、これが最後だと心に決めて、真剣に問いかけた。
「まだ、私のこと愛してる?」
彼は、何か面白い冗談でも聞いたかのように、ぷっと吹き出した。そして、私の頭をぽんぽんと軽く叩くと、こともなげに言った。
「当たり前だろ!変なこと考えるなよ。明日の夜、ちゃんと埋め合わせするから。
レストランももう予約してあるんだ」
彼の確信に満ちた言葉に、私は頷いた。
「ええ、待ってるわ」
九年間で初めて、彼に嘘をついた。
私は彼から視線を外し、部屋に戻ろうと背を向けた。
だが、急いでいるはずの之野は、まだ玄関に立ったまま。彼は私の名を呼んだ。
「詩織……」
彼は、何かを気づいたかもしれない。ただじっと、私から目を離さなかった。
私は二階の階段の踊り場で立ち止まり、彼に言った。
「早く行きなさいよ。待ってる人がいるんでしょう」
私がそう言うと、彼はしばらく私を見上げた。やがて私が二階の部屋に入るのを見届けると、今度こそ離れた。
私は二階の窓から、彼の背中が遠ざかっていくのを見ていた。間違った恋に捧げた九年間が、ようやく終わる。
飛行機の離陸まで、あと九時間。
明日の早朝に出発するので、その夜は一睡もできなかった。
離陸まで、あと三時間。私は、咲が送りつけてきた挑発の証拠と、之野と彼女がイチャイチャしている写真を一枚一枚プリントアウトし、リビングのテーブルの上に並べた。
離陸まで、あと二時間。私は、九年間ずっと身に着けていた、愛の証でもあったネックレスを外した。
あれは、之野がくれた最初のプレゼント。
十八歳の時、彼がアルバイトを五つも掛け持ちして、必死に稼いだお金で買ってくれたものだった。
「いつか必ず、このネックレスよりもずっと立派な指輪を、君の指にはめてみせる」
彼はあの時そう誓ってくれた。
離陸まで、あと一時間。私は、証拠の一番上に、一枚の白い紙を添えた。
そこには、こう書き残した。
【この九年間の恋は間違いだ。さようなら――詩織】
やるべきことを全て終え、がらんとした家の中、私はただ一人、朝の六時になるのを待つだけだった。
予約していたタクシーが、時間通りに門前に着く。私は最後に一度だけこの家を振り返り、そして、背を向けた。
車の中で、私は之野と繋がる全てのアカウントを削除し、空にした。
そして、スマホからSIMカードを抜き取ると、それを真っ二つに折り、窓の外へと投げ捨てた。
これで、私と之野を繋ぐものは、もう何もない。
空港に着き、チェックインを済ませると、私は搭乗券とパスポートを手に、保安検査場へと向かった。
このゲートを越えれば、私の新しい人生が始まる。
私が微笑みを浮かべて、一歩前に踏み出そうとするその時、背後から、聞き慣れた声が響いた。
「詩織!」
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