あの日、君を忘れなければ第3話
この話は約2812字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
結衣の全身は激しく震え、言葉には、魂を削るような痛みが滲んでいた。
「蓮、分かっているの?この医師たちが去れば、私の手術だって失敗に終わる可能性が高いのよ」
「それに……あなたをあの海から救い出したのは私なの。紗良じゃないわ!」
蓮の目元が、痛々しいほど赤く染まった。「すまない、分かっているんだ……でも、彼女がまた俺の目の前で命を落とすのを、ただ黙って見ることなんて、俺にはできないんだ」
結衣は絶望に耐えるように、静かに瞼を閉じた。
「……蓮、いい加減に目を覚まして。紗良は清香さんじゃないのよ」
しかし、蓮はなりふり構わず、結衣の前に崩れ落ちるように膝をついた。
「結衣、一度だけでいい、彼女を助けてくれ。頼む。……もしお前が死ぬのなら、俺も一緒に逝く。だから、お願いだ」
その時の彼は、絶望と悲しみの果てに、どこか病的なまでに追い詰められていた。
縋り付くような低い声で、彼は結衣に何度も哀願を繰り返す。
紗良のために、これほどまでの醜態をさらす蓮の姿を、結衣は想像すらしていなかった。
ただ、あの女の顔が清香に似ているという、たったそれだけの理由のために。
諦めずに思い続けていれば、いつかは彼の頑なな心も溶かせる日が必ず来ると、結衣はずっと信じていた。
しかし今、かつて味わったことのないほどの激しい敗北感が、彼女の心を冷酷に締め上げた。
「……私の後を追うなんて、そんなこと必要ないわ」長い沈黙の後、結衣は声を絞り出した。
「もし私が生き延びることができたら、その時は……私と再婚して」
蓮は考える間もなく、即座に拒絶の言葉を叩きつけた。「ダメだ!」
彼はガバッと顔を上げ、結衣をじっと見つめた。「分かっているだろ、俺が愛しているのは清香なんだ。そんなことをして、一体何の意味があるっていうんだ?」
何の意味があるのか——。その答えなんて、自分でも分からなかった。
おそらく、共に過ごしたあの幸せな七年間の記憶があまりにも深く魂に刻まれてしまい、どうしても手放すことができないのだろう。
あるいは、ただ単に清香に負けたくないだけなのかもしれない。たとえ蓮の心は手に入らなくても、せめて彼の存在だけは自分の隣に繋ぎ止めておきたかった。
結衣は一歩も引かず、一点を射抜くような声で言い放った。「答えて。……受け入れるのか、しないのか。それだけを教えて」
蓮は奥歯を噛みしめ、絞り出すように唸った。「結衣……お前、人の弱みにつけ込んで、なんて卑劣な真似を」
「ええ、そうよ。嫌なら、今すぐここから立ち去りなさい」
結局、病院で一番の専門医たちは紗良の救命へと回され、結衣は別の医師団による手術を受けることになった。
麻酔薬が血管へと流れ込み、意識が闇に沈んでいく中、結衣の頭の中に、かつての記憶が淡く蘇る。それはまだ幸せだった頃、二人で事故に遭い、瓦礫の下に閉じ込められた時のことだった。
あの時、彼自身ももう限界だったはずなのに、救助隊に向かって必死に叫んでいたのだ。
「先に彼女を……結衣を助けてくれ!俺のことは、後でいいから!」
今となっては、それほど遠い過去の出来事が、まるで前世の記憶のようにさえ感じられた。
結衣はかろうじて一命を取り留めたものの、その体は以前にも増してボロボロになっていた。
主治医は検査結果を手に、重苦しい表情で告げた。「本来ならあと一ヶ月は持つはずでしたが、今回の海で溺れたことで、臓器の機能低下が急速に進んでしまいました。おそらく……」
結衣はその言葉の裏にある残酷な意味を察し、静かに問いかけた。「……私に、あとどれくらいの時間が残されていますか?」
「……二週間も、持たないでしょう」
医師の言葉を裏付けるかのように、結衣の体は一日ごとに目に見えて衰えていった。一方の蓮は紗良の側に付きっきりで、結衣の元へ一度も顔を出すことはなかった。
結衣はあえて、しばらくの間、蓮に連絡を取ることはなかった。ただ独りで、静かに式の準備を進めていた。
そして蓮さん当日、蓮はようやく姿を現した。
結衣は穏やかな笑みを浮かべて彼に歩み寄り、「行きましょう」と短く告げた。
式場となったのは、広大な敷地に佇む荘厳な邸宅だった。
会場には、数多くの招待客が詰めかけていた。
蓮の手を取り、中央ステージへと進む中、結衣の手のひらはじっとりと汗ばんでいた。それは、初めて彼と結婚した時よりもずっと激しい緊張だった。
「ねえ、蓮。この式、気に入ってくれた?」
かつて蓮は、自分たちの結婚はあくまで政略的なものに過ぎなかったと言っていた。式のすべてが型に嵌まったありきたりなもので、もしチャンスがあるなら、もう一度やり直したいのだと。
バラではなく、ひまわりで飾りたい。
結婚行進曲なんてベタすぎるから、いらない。
式は必ず夜に挙げて、最後には花火を打ち上げるんだ——。
結衣はそれらのこだわりを一つ残らず形にした。ウェディングケーキの味さえ、彼の好みに合わせたものだった 。
だが、蓮はそれをチラッと見ただけで、何の反応も示さなかった 。
結衣の胸に暗い影が落ちる。それでも、彼女はすぐさま顔を上げ、眩しいほどの笑みを浮かべた 。
ステージの中央に立ち、司会者の祝辞がようやく終わると、いよいよ指輪交換の儀が始まった 。
「それでは蓮様。あなたは結衣様を妻とし、健やかなるときも、病めるときも、彼女を永遠に愛し、敬い、守り抜くことを誓いますか……」
その問いが終わった瞬間、結衣は思わず息を止めた。彼女の瞳は、蓮が司会者から指輪を受け取り、自分の方へと向き直るその動き一つひとつに釘付けになっていた 。
「……蓮」彼女は愛おしげにその名を呼び、期待に胸を震わせながら、そっと手を差し出した 。
蓮と結衣は数秒の間、言葉もなく見つめ合った 。彼が結衣の指に指輪をはめようとしたまさにその時、紗良が会場へと乱入してきた 。
「蓮さん、お願いだからその人と結婚しないで!」
結衣の表情は一瞬で凍りつき、冷徹な声が会場に響いた。「その女を今すぐ追い出しなさい!」
だが紗良は怯むどころか、激しい口調で結衣に食ってかかった。
「浅見社長、蓮さんは私を助けるために、あなたに無理やり再婚を強いられただけじゃない!愛してもいない女と結婚する彼を、ただ黙って見ることなんて私にはできない。……今ここで、あなたにこの命を返してあげるわ」
そう叫ぶなり、彼女は手に持っていた正体不明の液体を一気に飲み、空になった瓶を床へ激しく叩きつけた 。
瓶のラベルに気づいた誰かが、悲鳴のような声を上げた。「大変よ、彼女が飲んだのは猛毒の薬だわ!」
蓮はステージから飛び降りるようにして、彼女の元へと駆け出した 。
紗良の言葉を聞いた蓮の顔からは完全に血の気が失せ、結衣を射抜くその瞳には、もはや骨の髄まで凍りつくような憎悪しか残っていなかった 。
「……これで満足か?」
結衣は何も言わず、目の前の凄惨な光景を見つめながら、ただ唇をきつく噛みしめていた 。
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