あなたを愛した十年は、もう終わった第3話
この話は約2537字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
家に戻る頃には、もう夜が明けかけていた。
部屋の中はひどく散らかっていた。ローテーブルの上には、この30日間、あちこちを巡って持ち帰ってきたレストランのレシートや、二人で撮った写真をプリントしたものが、まだそのまま置かれている。
その一枚一枚が、この30日間ずっと現実から目を背け、自分を騙し続けていた私を嘲笑っているように見えた。
私は床にしゃがみ込み、引き出しの一番奥にしまってあった書類袋を取り出した。
中に入っていたのは、3年前の診断書だった。
紙はすでに少し黄ばんでいたが、一番上に記された診断内容は今でもはっきりと読めた。
重度の抑うつ状態。
流産後、子宮内容除去術施行。
指先がその文字の上で止まった瞬間、あの日の血に染まった光景が鮮明に蘇った。
あの頃、私は自分が妊娠していると知ったばかりだった。
医師は検査結果を渡しながら、まだ妊娠初期だから無理をしないようにと笑顔で言ってくれた。
私はその一枚の紙を大切に胸に抱き、病院を出たときには、まるで雲の上を歩いているような気持ちだった。
朗真を驚かせたかった。
けれど、そのことを彼に伝えるより先に、ホテルの前で彼の車を見つけ、私はホテルの中へ入った。
ロビーに入ると、ちょうどエレベーターに乗り込む彼の姿が見えた。
私は咄嗟にあとを追い、少し距離を置いたまま同じ階まで上がった。
廊下の奥へ消えていく彼の姿を見届けてから、私は震える手でスマホを取り出し、彼に電話をかけた。
すると、廊下の先にある一室から、聞き慣れた着信音が聞こえてきた。
やがてドアが開き、そこには明らかに動揺した様子の彼が立っていた。
そのとき、廊下の先にある非常階段へ駆け込んでいく女の後ろ姿が見えた。顔までは見えなかったが、すれ違いざまに漂ってきた香水の香りには、どこか覚えがあった。
私は咄嗟に女のあとを追った。朗真もすぐに追いかけてきた。
非常階段の前で振り返り、私は彼の袖を掴んで、震える声で問い詰めた。「あの女、誰なの?」
朗真の表情が険しくなった。「俺を尾行したのか?」
「あの女が誰なのかって聞いてるの!」
彼は私の手を振り払い、冷たい声で言い放った。「いい加減、狂ったみたいに騒ぐのはやめてくれないか?」
私はよろめきながら後ずさりし、足を踏み外して、そのまま非常階段から転げ落ちた。
下腹部に激痛が走った瞬間、ようやく思い出した。
まだ彼に伝えていなかった。
私たちに、子供ができたことを。
そのあと、意識は途切れた。
次に目を覚ましたとき、鼻をつくような消毒液の匂いが漂う病室にいた。
朗真は一晩中、病室の外にいた。翌朝、彼が中へ入ってきたとき、その目は充血していた。
私はてっきり、抱きしめてくれるのだと思った。
けれど、彼はベッドのそばに立ったまま長い間黙り込み、やがて一言だけ告げた。「寧々、離婚しよう」
その言葉は、流産したあとの痛みよりも、ずっと深く胸を抉った。
……
過去の記憶から我に返った私は、診断書の写真を撮って彼に送った。【この子のこと、覚えてる?】
けれど、いつまで経っても返事はなかった。
ところが30分後、電話をかけてきたのは冴香だった。
彼女は泣きそうな声で言った。「寧々、もう彼を追い詰めないで。あのとき子供を失って、彼だってすごく苦しんでたの」
全身から血の気が引いた。「……知ってたの?」
冴香は黙り込んだ。
その瞬間、すべてを悟った。
私が子供を失ったことさえ、彼女は最初から最後まで知っていたのだ。
それなのにこの3年間、彼女は心療内科に通う私に付き添いながら、その一方で朗真を庇い、彼が私と距離を置いているのは、これ以上私を刺激したくないからだと言い続けていた。
突然、笑いが込み上げた。
笑っているのに、涙は止めどなく頬を伝っていった。
電話の向こうで、冴香が泣きながら私の名前を呼んでいた。「寧々、ごめん。本当にあなたを傷つけるつもりじゃなかったの」
けれど、もう彼女の声はよく聞こえなかった。
耳鳴りがひどく、激しい吐き気が込み上げ、まるで体ごと真っ暗な闇の中へ引きずり込まれていくようだった。
手が薬のボトルに当たり、床へ落ちた。白い錠剤が辺り一面に転がっていった。
そのあとのことは、あまりよく覚えていない。
ただ、手首に鈍い痛みが走り、部屋の明かりが次第にぼやけていったことだけは覚えている。
意識が闇に沈みかけたとき、玄関の外から激しくドアを叩く音が聞こえた。
そして次に目に入ったのは、ドアを破るようにして飛び込んできた朗真だった。
私を抱き上げた彼の手は、震えていた。
「寧々!」
……
再び目を覚ましたときには、私は病院のベッドに横たわっていた。手首には包帯が巻かれ、喉はひどく乾いて痛んでいた。
朗真はベッドのそばに座っていた。目は赤く、シャツにはまだ血の跡が残っていた。
私が目を覚ましたのを見ると、彼はようやく安堵したような表情を浮かべた。けれど次の瞬間には、抑えきれない怒りが滲んだ。
「寧々、こんなことまでして俺を追い詰めないと気が済まないのか?」
私は震えている彼の手を見つめながら、心の中にほんのわずかな、馬鹿げた期待が芽生えるのを感じた。
少なくとも、私が死ぬのは怖かったんだ。
少なくとも、私が死にかければ、彼はまだ駆けつけてくれる。
そう思った、そのときだった。
彼のスマホの着信音が鳴り響き、画面に冴香の名前が表示された。
朗真が電話に出ると、その表情はたちまち変わった。
冴香が何を言っているのかまでは聞き取れなかった。ただ、彼が低い声で尋ねるのだけは聞こえた。「また胃が痛むのか?薬は飲んだ?」
電話を切ると、朗真は私へ視線を向け、その目に一瞬ためらいを浮かべた。
それから、こう言った。「少し休んでろ。すぐ戻るから」
彼は立ち上がると、コートを手に取り、足早に病室を出ていった。
病室のドアが閉まった瞬間、不思議なくらい心が静かになった。
命を懸けても引き留められなかった人を、冴香は「痛い」の一言だけで呼び出せるんだ。
その夜、私は病院のベッドにもたれたまま、まだ震えの残る手でセレヴィア行きの航空券を予約した。
ずっと昔から、一度は行ってみたいと思っていた場所だった。
朗真は以前、結婚記念日には一緒に雪山を見に行こうと約束してくれた。
でも、もうその必要はない。
一人で行く。
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