あなたの特別を、私はもう待たない第3話
この話は約2197字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
隣では夕夏が何度かすすり泣き、目を真っ赤にして、いかにもひどく傷つけられたような顔をしていた。
宗佑が私を見る。
私は反論せずにはいられなかった。「そもそも、成海さんがまともに仕事をしていなかったから――」
納得できずに反論しかけた私を、宗佑は冷たく遮った。「篠原課長、仕事は感情をぶつける場所じゃない。きちんとできないなら、辞めてもらって構わないから」
それだけ言うと、宗佑は自分のオフィスへ向かった。
夕夏は得意げに眉を上げ、私に向かってこっそり舌を出すと、すぐに宗佑の背中を追う。
「社長、仕事でわからないところがあるんですけど、教えていただいてもいいですか?」
「なら、早くついてこい」
背後から、同僚たちの感嘆する声が聞こえる。「うわ、社長って成海さんには本当に優しいよね」
席に戻ってから、私は退職届のメールを何度も書いては消し、消してはまた書き直した。
だが結局、送信することはできなかった。
冷静に考えれば、今の私にはこの給料が必要なのだ。
それに、担当しているプロジェクトももうすぐ終わる。
あとはクライアントから契約書にサインをもらえれば、問題がない限り年末にはプロジェクトディレクターへ昇進できるはずだ。
別れただけだ。そのために自分のキャリアまで投げ出す必要はない。そう自分に言い聞かせる。
その日の夜、宗佑はまたしても地下鉄の改札前に現れた。
私は見向きもせずに横を通り過ぎたが、すぐに手首をつかまれた。
「ラインも電話もブロックして……一体どういうつもりだ?」
振り返ると、宗佑の暗く沈んだ目と正面からぶつかる。
「『別れる』って言葉の意味もわからないの?」
宗佑は一瞬言葉に詰まり、眉を寄せた。
「別れるのは構わない。ただ、俺は納得できる理由が欲しい」
私はその手を振り払い、思わず声を荒らげた。「ここ数日あったことじゃ、理由にならないの?
私と成海さんが揉めたときだって、宗佑は周りの話だけ聞いて、私の言うことなんて聞こうともしなかったじゃない!」
駅前は行き交う人で混み合い、辺りには絶えず人の声が飛び交っていた。
宗佑は昔から、人前で私と揉めることを嫌う。案の定、腕をつかんで車へ連れていこうと手を伸ばしてきたので、私は数歩後ろへ下がった。
彼の手が宙で止まり、その表情に冷たい影が差した。
「成海さん一人のことで、いつまでこんなことを続けるつもりだ?」
彼の声には明らかな苛立ちが滲んでいる。「涼乃、俺にはいつまでも君に付き合っている時間はない。
俺が成海さんを気にかけているのは、社員だからで、それ以上でも以下でもない。
俺は、言うべきことは全部説明したから、信じるかどうかは君の勝手だ」
そう言い残し、宗佑は少し離れたところに停めてあった車へ向かった。
大きな音を立ててドアが閉まり、そのまま車は走り去る。
あっという間に車の流れに紛れ、見えなくなった。
全身から力が抜け、私はゆっくりとその場にしゃがみ込んだ。温かい涙が、不意に地面へ落ちた。
本当に馬鹿みたいだ。
今さらまだ、宗佑が謝ってくれるんじゃないか、ちゃんと話をしてくれるんじゃないかと期待していたなんて……
……
あの日以来、私は社内で意識して宗佑を避けるようになった。
必要な業務連絡以外では話さず、偶然顔を合わせても、ほかの社員と同じように距離感を保って接する。
宗佑も当然それには気づいていたはずだが、何も言わなかった。
それから1週間後、秘書を通して、書類を社長室まで持ってくるよう宗佑から連絡があった。
私はほとんど迷わず、その書類を夕夏に渡す。
夕夏は嬉しそうに受け取り、軽い足取りで上の階へ向かった。
ところが、それから間もなく上の階が妙に騒がしくなった。
理由はわからないが、宗佑が珍しくひどく怒ったらしい。
月曜日、残業を終えた頃には、身体中が重く、すっかり疲れ切っていた。
エレベーターを降りると、少し離れたところに見覚えのある姿があった。
意外に思いながら近づいていく。「郁人くん?どうしてうちの会社に?」
瀬尾郁人(せお いくと)は以前、私が担当していたクライアントだ。
その後、ひょんなことから友人になった。
郁人は目元を和らげ、色鮮やかな花束を私に差し出した。「月曜日を祝ってってことで、はい、花束」
受け取った私は思わず苦笑する。「月曜日なんて、何がおめでたいの?むしろ一週間で一番嫌い」
郁人は笑いながら、私の頭を軽く撫でた。「お疲れさま。一緒に、ご飯でもどう?」
仕事のあとに予定もなかったので、私は頷いた。
そのとき、社長専用エレベーターの扉が静かに開いた。
中央に立っていたのは宗佑で、両手をスラックスのポケットに入れ、グレーのシルクシャツをまとった姿は、肩のラインがすっきりとしていてすらっとしている。
もう勤務時間を過ぎているせいかネクタイはなく、シャツのボタンも上から2つ外されていた。普段の冷たく尊大な雰囲気に、どこか気の抜けた気怠さが混じっている。
宗佑の視線が私の顔をかすめ、そのまま腕の中の花束へ落ち、最後に隣の郁人へ移った。
その視線に気づいた郁人が、声をかける。「桐生社長、ご無沙汰しております」
けれど宗佑は返事すらしなかった。
社交辞令の一言さえ返さず、大股でエレベーターを降り、そのまま私たちの横を通り過ぎていく。
やがて車に乗り込んだ宗佑は、前に一台も車がいないというのに、何度も強くクラクションを鳴らした。
その音が夕暮れの中にやけに大きく響いた。
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