あなたの特別を、私はもう待たない第1話
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私・篠原涼乃(しのはら すずの)は、社長の桐生宗佑(きりゅう そうすけ)との社内恋愛を、5年間ずっと隠し続けている。
平日の朝は、通勤途中に彼の車に乗せてもらうのがいつもの流れだったのだが、ただし会社に関係を知られないよう、降ろしてもらうのは会社から5キロほど離れた駅。しかし、その日はいつもの場所に近づいたところで、私は弱々しく声を上げた。
「今日、生理でお腹がすごく痛くて……そのまま会社の地下駐車場まで行ってくれない?」
宗佑は顔をこちらへ向け、血の気のない私の顔をじっと見たが、それでも、返事に迷いはない。
「この時間、会社の地下駐車場は人が多い」
結局、私はいつもの駅で車を降りるしかなかった。
それから20分後、腹部を押さえながら、冷や汗をかきながらようやく会社までたどり着いた私の目に飛び込んできたのは、宗佑の車から降りてくる新人の女性インターン・成海夕夏(なるみ ゆうか)の姿だった。
彼女は頬を赤らめ、車内へ向かって頭を下げる。「桐生社長、会社まで送ってくださってありがとうございました。それに、わざわざ遠回りして生理痛の薬まで買っていただいて……」
自分の席に戻ると、私は無心で鎮痛剤を1錠飲み込み、そのまま宗佑にラインを送った。
【別れよう】
* * *
すぐに既読がついたが、宗佑からの返信はなかった。
10分後、部署合同のミーティングが始まり、宗佑も会議室に姿を現した。
一瞬だけ目が合ったものの、その表情には何の変化もない。
まるで私から届いた別れのメッセージなど、何とも思っていないかのようだった。
各自の報告が終わると、宗佑は資料を1部手に取り、眉を寄せた。「このプロジェクト、誰が担当した?」
私は椅子を引いて立ち上がった。「私です」
彼が資料をテーブルの上に放り投げる。
「篠原課長、君のチームが作成した資料をもう一度よく確認した方がいい。
顧客の成約見込みの欄に、初歩的な数値ミスがある」
彼から向けられる視線は冷たく、一切の容赦がなかった。
「こんな仕事をさせるために、会社は君に高い給料を払ってるわけじゃないんだから」
会議室は一瞬で静まり返り、誰もが息を潜めた。
よりによって、そのタイミングで下腹部がまた激しく痛み始め、額には次々と冷や汗が滲んでくる。
隣にいた部下の吉岡佳奈(よしおか かな)がそれに気づき、立ち上がろうとしたので、私は先にその肩を軽く押さえた。
宗佑は目を伏せ、そのやり取りを黙って見ていた。
私は俯いたまま、平静を装って答える。「申し訳ありません。私の確認不足ですので、会社の処分には従います」
場が数秒間、沈黙に包まれた。
宗佑は顔を上げて私を見つめ、淡々と口を開く。
「篠原課長は今回の業務上のミスにより、今年度の評価を減点し、賞与は全額カットする」
私は何も言わずに座った。
胸の奥には、じわじわと痛みが広がっていく。
続いて、次の部署の報告に移った。
報告者は、新しく入社した夕夏。
今朝、宗佑の車から降りてきたあの女性だった。
夕夏の報告を聞き終えると、宗佑はすぐにいくつかのミスを指摘した。
先ほどの私への処分を見ていたせいか、夕夏はたちまち顔を青ざめさせる。
「も、申し訳ありません、社長。すぐに修正します」
宗佑は資料から顔を上げ、わずかに眉を上げた。
「俺がそんなに怖いか?」
夕夏は反射的にこくりと頷いた。
けれど、すぐに気づいたらしく、今度は慌ててぶんぶんと首を横に振る。
その様子を見た宗佑は拳を口元に当て、顔を背けた。
そして、堪えきれなかったように小さく笑う。
その瞬間、いつも冷たい宗佑の表情がふっと和らいだ。
夕夏は耳まで赤くし、呆然と見つめている。
宗佑は立ち上がり、スラックスのポケットに手を入れ、穏やかに言った。「次からは気をつけるように」
それから全員を見渡す。「ミーティングは以上」
宗佑が会議室を出ていった途端、室内は一気に騒がしくなった。
同僚たちは自然と2つのグループに分かれた。
ひとつは、夕夏を取り囲んで冷やかす人たち。
「成海さん、今の社長、完全に特別扱いだったよね!」
そのうちの一人が、面白がるようにこちらをちらりと見た。「同じようなミスなのに、かなり詰められてた人いたよね。それにしても、成海さんにはずいぶん優しい社長じゃん。
将来社長夫人になって出世しても、私たちのこと忘れないでね」
夕夏は頬を染めた。「もう、変なこと言わないでくださいよ」
もう片方は、私を慰めに来た人たち。
その中でも、うちのチームに入ったばかりの佳奈が、申し訳なさそうに私を見た。
「課長、すみません。あの資料を作ったのは私なのに、課長に責任を取らせてしまって……
私、今すぐ社長に本当のことを話してきます」
私はその手をつかんで引き止め、気にしなくていいとなだめた。
宗佑があれほど重い処分にするとは、誰も予想していなかったのだから。
そのあとトイレに入り、鍵をかけた瞬間、ずっと張り詰めていた身体から一気に力が抜けた。
冷たいドアに背中を預け、そのままずるずると座り込む。
さっき会議室で聞いた同僚たちの言葉と、私と夕夏に対する宗佑のあまりにも違う態度を思い出した途端、涙が溢れた。
口元を手で押さえ、声だけは漏らさないようにする。
大人になると、泣き崩れるときでさえ、誰にも気づかれないようにしなければならないことがあるのだ。
しばらくして気持ちを落ち着かせると、私はスマホを取り出し、宗佑のプライベートのラインを削除した。
人間というのは、不思議なものだと思う。
5年間も関係を隠して付き合ってきたけれど、宗佑が仕事に私情を持ち込まない人間なのは、ずっと前から知っていた。
私自身、仕事でミスをして、みんなの前で厳しく叱られたことも一度や二度ではない。
それでも今回は、どうしても自分を納得させることができなかった。
それは、今朝始まった生理の腹痛のせいかもしれない。
あまりにも痛かった……
だから、大勢の社員が見ている前で夕夏が宗佑の車から降りてくるのを見た瞬間、もう自分に嘘をつけなくなった。
私はこの5年間、宗佑も少しくらいは本気で私を好きでいてくれた……そう信じていただけだったのかもしれない。
その日は仕事が終わっても、私はいつものように同僚が全員帰るのを待って、地下駐車場の宗佑のところへ向かうことはせずに、そのまま近くの地下鉄の駅へと向かった。
改札を通ろうとしたところで、突然腕をつかまれる。
振り返ると、スーツ姿で険しい顔をした宗佑が立っていた。
私が何か言うより先に、強引に連れていかれる。
車に乗せられると、宗佑は身を乗り出して私のシートベルトを締め、それからこちらを見た。
「答えろ。なんで別れるなんて言い出したんだ?
成海さんを会社まで送って、君を送らなかったからか?」
目の奥が熱くなったけれど、私は何も言わなかった。
宗佑が目を閉じる。
これは苛立って、そろそろ我慢の限界にきているときの癖だ。
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