あなたの愛に気づいた時、私はもういなかった第3話
この話は約2583字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
器を置こうとしただけで、うっかり絵筆に触れてしまった私。裕人は煮えたぎるスープを私に浴びせた。
腕に酷い水ぶくれができても、彼は一瞥すらくれず、冷たく言い放ったのだ。
「出て行け。来るなと言っただろう」
あの火傷の痕は、今も腕に醜く残っている。
けれど美亜は自由にアトリエへ出入りし、あまつさえ絵筆を手に取って、彼の下書きに好き勝手落書きさえできる。
その時ようやく理解したのだ。アトリエは裕人にとって不可侵の領域なんかじゃない。ただ、その例外に、私は含まれていなかっただけ。
お腹を痛めて産んだ我が子は、家庭に縛られた家政婦のような母親を嫌悪し、美亜の懐へ飛び込んでいく。
幼くて分別がつかないだけだと思っていた。でも、美亜にはあんなに優しくできるのだから、それは間違いだった。
遊星が美亜を母親に望むなら、叶えてあげよう。
翌日、三人は挨拶もなしにベルリンへと発った。
美亜がSNSに投稿した写真には、はしゃぐ彼女の顔と、遊星と裕人の屈託のない笑顔が並んでいた。
【行きたいって言ったら、二人がすぐ連れてきてくれた♡家族三人、揃って幸せ!】
胸が、ちくりと疼いた。
ベルリンは、かつて裕人と新婚旅行で行くはずだった場所だ。けれど重度の対人恐怖症だった彼は外出を嫌がり、珍しく優しい口調でこう言った。
「症状が落ち着いたら、三人で行こう」
あの言葉を、私はどれだけ心待ちにしていただろう。
今になって分かった。裕人の言う「家族三人」に、私は最初から含まれていなかったのだ。
システムを呼び出し、尋ねる。いつになったら帰れるのかと。
【ストーリー設定により、二日後、藤原裕人の手によって死亡します】
ほっと息をつき、がらんとした部屋を見回す。本当に自分のものなど、ほとんどない。大半は裕人と遊星のために揃えたものばかりだった。
翌日、裕人が怒りを露わに家へ駆け込んできた。いつもの無表情とは違う、鬼気迫る形相で。
「お前がマスコミに俺と美亜のベルリンでの写真を流したのか?今、メディアに不倫を嗅ぎつけられた。追い詰められた美亜が自殺を図ったんだ!今、病院で処置を受けているんだぞ!」
何を言われているのか分からない。
「私は何も――」
彼らとは距離を置きたいくらいなのに、わざわざ写真を撮ってリークなどするはずがない。
遊星が泣きながら私を突き飛ばす。
「美亜さんに何かあったら、一生恨んでやる!パパが美亜さんを好きで何が悪いんだよ!この、くそババア……!ババアなんか死ねばいいのに!」
泣き崩れながら美亜のために喚く息子。自分の言葉が実の母親をどれだけ傷つけるか、想像すらできていない。
その時、裕人の携帯が鳴った。彼は目を見開き、叫ぶ。
「分かった。すぐにドナーを連れて行く!」
彼が私の腕を荒々しく掴み、引きずるように外へ連れ出す。
「美亜が大量出血してる。お前の責任だ。今すぐ病院で輸血しろ!」
有無を言わさず病院へ連れ込まれ、太い針が血管に突き刺さる。鮮血が、容赦なく吸い出されていく。
裕人は手術室の方を不安そうに見つめている。私の顔色が土気色に染まっていくのを見て、看護師がおずおずと口を開いた。
「藤原さん、奥様がもう限界のようです。これ以上は危険です、そろそろ中止を――」
「美亜の生死が分からないのに止めるな。この女がどうなってもいい、美亜を助けろ」
裕人が怒鳴りつける。看護師は困惑しながらも、採血を続けるしかなかった。
意識が遠のき、暗闇へと沈んでいく。
ようやく針が抜かれた頃、遊星と裕人は開いた手術室へ駆け込んでいった。床に倒れた私など、見向きもせずに。
目を覚ますと、ベッドに横たわっていた。採血をしてくれたあの若い看護師が、不憫に思って手当てをしてくれたらしい。
隣の病室から、明るい笑い声が聞こえてくる。
遊星の弾んだ声だ。「美亜さん、やっと目が覚めたね!心配したんだから!」
なんて賑やかで、幸せそうな彼ら。それに比べて、私はどこまでも独りぼっちだ。
程なくして、遊星と裕人が美亜を支えながら、私の病室へ入ってきた。
美亜の顔に、悪意に満ちた勝利の笑みが浮かぶ。
「雪乃さん、輸血してくれたんだって?ふふ、感謝しますわ」
裕人は冷たく言い放つ。
「礼を言う必要はない。美亜をこんな目に遭わせたのはこいつだ。当然の償いだ」
「そうだよ!」
遊星が憤慨した表情で私を睨む。
「この悪い魔女が写真を流したせいで、美亜さんは苦しんだんだ。あんなことしなければ、まだベルリンで楽しく遊べてたのに!」
彼はわざとらしく美亜に抱きつき、大きなため息をついてみせた。
「美亜さんが、本当のママだったらいいのに」
「だったら、彼女に母親になってもらえば?」
冷ややかに返すと、遊星が固まった。そして図星を突かれたように顔を真っ赤にする。
「い、いいよ、そうする!ママなんか要らない!」
「雪乃、子供の前でそんなことを言って傷つけて……お前は母親失格だ」
裕人が厳しく叱責する。けれど遊星が私にどれだけ酷い言葉を浴びせても、彼は聞こえないふりをしてきたくせに。
「体調が戻ったらさっさと帰れ。遊星の具合が悪いんだ。薬膳を作って調子を整えろ!」
そう言い残し、彼は美亜と遊星を連れて出て行った。
自嘲気味な笑いが漏れた。
そうね、帰らないと。彼らのためではなく、私自身の家へ。
夜になり、システムが突然話しかけてきた。
【ストーリー起動。転送ゲートを開きます】
次の瞬間、藤原家の二階が、突如として猛烈な炎に包まれた。
ドアを蹴破る音が響き、裕人が遊星を抱えて廊下を駆け出す気配がする。
彼は私の隣の部屋にいる。私の部屋のドアを壊せば、私を助けられる距離だ。
けれど彼は叫んだ。「美亜、どこだ!?」
この期に及んでも、彼が心配するのは美亜なのだ。
「パパ、美亜さんは隣の部屋!」
二人が美亜の部屋へ突入する。裕人は遊星の手を引き、煙を吸って気を失った美亜を抱え、階下の安全な場所へと駆け下りていった。
私は静かに目を閉じる。システムの転送を待つ。
その時、裕人が、はっとしたように振り返る気配がした。
「雪乃!雪乃!」
裕人が戻ろうとした瞬間、二階全体が轟音を立てて崩れ落ち、焼け焦げた柱が私の部屋の前に崩れ落ちた。
【ゲート開放中──宿主の帰還を完了します】
システムが、私の遺体を偽装してくれたのだ。
意識が途切れるその瞬間、裕人が私へ向かって駆けてくる音と、引き裂かれるような絶叫が聞こえた気がした。
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