和紙文あなたの愛に気づいた時、私はもういなかった · 第1話設定≡

あなたの愛に気づいた時、私はもういなかった第1話

この話は約2603字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

小説の結末で飛び降り自殺する運命にあった、サヴァン症候群の天才画家――藤原裕人(ふじはら ひろと)。

彼を救うためだけに、私、藤原雪乃(ふじはら ゆきの)は自らこの世界へと身を投じた。

彼は極度の人間嫌いで、病的なまでの潔癖症だった。他人との関わりを拒絶し、アトリエという聖域には誰の立ち入りを許さなかった。ましてや、制作を妨げることなど論外どころの話ではなかった。

あれは、一度目のことだった。四時間、片時も火のそばを離れず、灰汁を掬い続けて仕上げた一番出汁を手にアトリエへ向かった私は、不注意にも彼の絵筆に触れてしまった。

たった、それだけのことだったのに。それなのに裕人は、あろうことか煮えくり返る鍋の中身を、躊躇いもなく私に浴びせかけたのだ。

二度目は、真夜中のこと。高熱にうなされ、這うようにしてアトリエの前まで辿り着き助けを求めたが、彼は嫌悪感を隠そうともせずに私を突き飛ばし、無情にも扉を閉ざした。

床に崩れ落ちた私は一晩中放置され、翌朝家政婦に発見されるまで、誰にも気づかれることはなかった。

それでも、私は彼の流儀を尊重してきたつもりだ。結婚して七年、彼が禁じた領域には決して足を踏み入れなかった。

けれどある日、一人の女が弾むような足取りでアトリエへ駆け込み、彼の下書きを無邪気にぐちゃぐちゃにする光景を目の当たりにしてしまった。

裕人は、そんな彼女の横顔を何枚も何枚も、慈しむように描き連ねていた。傍らには、丁寧な文字で【俺のミューズ】と添え書きをして。

ああ、そうか。ようやく、すべてを受け入れられた気がした。私は長い間封印していたシステムを呼び出した。

「帰りたい」

【了解しました。エンディングを設定します──藤原裕人の手による死亡です】

* * *

小説の結末で飛び降り自殺する運命にあった、サヴァン症候群の天才画家――裕人。

彼を救うためだけに、私は自らこの世界へと身を投じた。

彼は極度の人間嫌いで、病的なまでの潔癖症だった。他人との関わりを拒絶し、アトリエという聖域には誰の立ち入りを許さなかった。ましてや、制作を妨げることなど論外どころの話ではなかった。

あれは、一度目のことだった。四時間、片時も火のそばを離れず、灰汁を掬い続けて仕上げた一番出汁を手にアトリエへ向かった私は、不注意にも彼の絵筆に触れてしまった。

たった、それだけのことだったのに。それなのに裕人は、あろうことか煮えくり返る鍋の中身を、躊躇いもなく私に浴びせかけたのだ。

二度目は、真夜中のこと。高熱にうなされ、這うようにしてアトリエの前まで辿り着き助けを求めたが、彼は嫌悪感を隠そうともせずに私を突き飛ばし、無情にも扉を閉ざした。

床に崩れ落ちた私は一晩中放置され、翌朝家政婦に発見されるまで、誰にも気づかれることはなかった。

それでも、私は彼の流儀を尊重してきたつもりだ。結婚して七年、彼が禁じた領域には決して足を踏み入れなかった。

けれどある日、一人の女が弾むような足取りでアトリエへ駆け込み、彼の下書きを無邪気にぐちゃぐちゃにする光景を目の当たりにしてしまった。

裕人は、そんな彼女の横顔を何枚も何枚も、慈しむように描き連ねていた。傍らには、丁寧な文字で【俺のミューズ】と添え書きをして。

ああ、そうか。ようやく、すべてを受け入れられた気がした。私は長い間封印していたシステムを呼び出した。

「帰りたい」

【了解しました。エンディングを設定します──藤原裕人の手による死亡です】

……

息子の藤原遊星(ふじはら ゆうせい)が、私が作った薬膳料理をまたひっくり返した。その顔に浮かんだ冷ややかな蔑みは、裕人の面影そのものだった。

「ママってさ、いつも寄生虫みたいにパパにくっついてるよね。プライドないの?恥ずかしくないの?

美亜さんこそパパにふさわしいのに。どうして自分から出て行かないわけ?ママみたいな吸血鬼、パパには釣り合わないんだよ」

淡々とした口調。まるで目の前にいるのが実の母親であるという事実など、どこかへ消え失せてしまったかのようだ。

遊星には知らない。幼い頃から病弱だった彼はまさしく、「寄生虫」である母が一から薬膳を学び、少しずつ健康に育て上げてきたことを。

裕人はダイニングテーブルに座ったまま、遊星の暴言など聞こえていないかのように、吉谷美亜(よしや みあ)と共に描いた下書きをただ眺めている。

美亜はわざとらしく口元を押さえ、笑みを浮かべながら遊星をたしなめた。

「遊星くん、ママを理解してあげなきゃ。家庭に入って夫と子供の世話をするのが生きがいっていうタイプもいるのよ。誰もが私みたいに自立してるわけじゃないんだから」

遊星が美亜へ顔を向けた途端、その表情がぱっと明るく輝く。

「ねえ美亜さん、僕、美亜さんがママだったらよかったのに。いつパパと結婚して新しいママになってくれるの!」

もう、胸は痛まなかった。感覚が麻痺してしまったのだ。だから、声を荒らげることもない。

裕人は私の強張った表情を一瞥すると、吐き捨てるように言った。

「子供の戯言だ。お前の息子だろう。母親がいちいちヒステリックになるな」

その声を聞いた美亜が、満面の笑みで彼の腕に手を絡ませる。

「ねえ裕人、また新しいインスピレーションが湧いてきちゃった。今日の午後、絵を描きに行かない?」

裕人は潔癖症だと言っていた。かつて、眠っている彼の頬にそっと触れただけで、彼は嫌悪を露わにして三度もシャワーを浴び、冷たく警告したのだ。勝手に触れるな、と。

なのに今、彼の瞳から冷ややかな色が消え、美亜へ優しく応える。

「ああ。君は俺のインスピレーションの源だから。君の望みなら何でも叶えよう」

遊星も飛び跳ねて喜ぶ。

「やったー!僕も行く!それで前に行った海辺のレストランでご飯食べたい!」

美亜は彼の鼻先を軽くつつき、申し訳なさそうに私へ視線を向けた。

「ごめんなさい雪乃さん。私たち三人で今夜は外食するから、帰りません。夕飯の支度は結構ですよ」

その馴れ馴れしい物言いは、まるで彼女こそがこの家の女主人で、私はただの家政婦だと言わんばかりだった。

裕人は上着を手に取る。

「美亜は俺のソウルメイトだ。出かけるのも制作のためでしかない。いちいち詮索して電話してくるな」

私は黙って首を縦に振った。迷いなど、もうどこにもなかった。

裕人は一瞬驚いたような顔を見せたが、すぐに美亜の呼びかけに気を取られ、振り返ることはなかった。

縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)