あなたと交わらない人生第3話
この話は約2939字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
圭介はすぐ手を放した。
真琴も彼の視線に気づき、私の腕から指を離す。
――パシン。
私は迷いなく平手を振り抜き、圭介の頬を打った。
空気が、一瞬で凍りついた。
誰も言葉を失い、その場に固まっている。
私はバッグを掴み、背を向けて歩き出した。
圭介は反射的に追いかけようとした。
そのとき、真琴が小さく舌打ちする。
「紗月って、意外と気が強いんだね。先輩、家ではそんなに尻に敷かれてるの?」
軽く笑いながら、続ける。
「今日は身内だけでよかったよ。外で同僚や上司に見られてたら、これから職場で顔、立たなくなるでしょ?」
圭介が体面を何より気にすることを、私はよく知っている。
だから今まで、人前では必ず彼の顔を立ててきた。
――その結果、彼は私の好意に甘え、平気で踏みつけるようになった。
……もう、やめだ。
案の定、真琴の言葉を聞いた圭介は、追いかけかけた足を止める。
「いいって。今は触らないほうがいい。ほら、続けるぞ」
――バタン。
私はドアを叩きつけた。
耳障りな笑い声も、全部まとめて向こう側に閉じ込める。
外は、雲ひとつない青空だった。目が痛くなるほど、眩しい。
私はそのまま、会社へ戻った。
それから数日間、仕事に没頭して、圭介のことを考えないようにした。
私は二十六歳だ。
親族や友人に見守られて婚約し、入籍日も決まり、式場の予約まで済んでいる。
終わらせるにしても、続けるにしても、一度、互いに冷静になってから決めるべきだと思った。
けれど圭介は、友人の前で叩かれたことを、まだ根に持っているらしく、結局、こちらに連絡してくることはなかった。
月曜の夜、私は取引先の相手と会食の約束を入れていた。
会社のビルを出た瞬間、真琴がいきなり目の前に立ちはだかった。
「紗月。お金だけ受け取って逃げるとか、さすがに通らないでしょ」
わざと周囲に聞こえる声量で言う。通りを歩いていた人たちが、一斉にこちらを振り向いた。
「さすがにもう、式の直前に破談にするくらいで騒ぐ時代じゃないでしょ」
一拍置いて、にやりと笑う。
「でもね。付き合ってる間に贈り物だの現金だの、細かいの全部合わせたら、二千万円は軽く超えてるでしょ。男のほうは大人だからさ、それはもう返せなんて言わずに、全部あなたに渡した」
さらに、言葉を重ねた。
「……でも、結婚のために渡したお金は別。結納金が一千五百万円。車が二千万円。宝飾品が合わせて二千万円。それに、新居の頭金で四千万円。
ここまでいって、何もなかった顔で終わりにしようっていうのは、さすがに無理じゃない?」
矢継ぎ早にまくしたてられ、私は口を挟む隙もなかった。
話を聞いた通行人たちが、ひそひそと指をさす。
「金だけ取って逃げるって、結婚詐欺じゃないの」
「付き合ってるだけで何千万ももらうとか、完全に金目当てでしょ」
「見なよ、あの身なり。男を騙して稼いだ金で着飾ってるんだろ。ほんと、恥知らず。こういうのがいるから、世の中、どんどんおかしくなるんだよ」
「隣の男、新しいパトロンじゃね?次はそっちからも巻き上げるつもりなんだろ」
そう言いながら、何人かがスマホを取り出し、こちらに向けて動画を回し始めた。
隣に立つ取引先の社長が、眉をひそめる。
「高瀬さん……これは、どういうことですか」
低い声で、淡々と続ける。
「契約でも申し上げたとおり、御社側にネガティブな報道が出て、案件に影響が及ぶ恐れがある場合、当社は取引を打ち切り、損害賠償を請求する権利があります」
この案件は、簡単に取れたものじゃない。三か月、チームで踏ん張り、倒れて二度、病院に運ばれながら、ようやく成立させた案件だ。
失うわけにはいかなかった。
「中村さん、違います――」
必死に声を出した、その瞬間。
「何が違うの?」
真琴が、甲高い声で遮った。
彼女は最初から、そのつもりだったのだろう。バッグから、写真と明細書の束を取り出す。
「ほら。祝日や記念日に振り込んだお金。あなたの実家に買ったもの。婚約祝い」
一枚一枚、突きつける。
「それから、結婚のために渡した車と新居。全部、ちゃんと残ってる」
そして、勝ち誇ったように言った。
「ねえ中村社長。私が彼女を陥れてるのかどうか、あなたが判断してくれません?」
真琴は、明細の束を中村社長の目の前に突き出した。
中村社長は、苛立ったようにそれを押し返した。
「高瀬さん。まずは身の回りのことを整理してください。話は、それからにしましょう」
そう言い残して、彼は背を向けた。
私は思わず、後を追おうとした。
その瞬間、真琴が私の腕をつかむ。
「紗月。ここで逃げるのは、さすがにないよ」
低い声で、言葉を重ねた。
「理由もはっきりしないまま先輩を切るなら、お金の話は避けて通れないでしょ。みんな大人なんだから。
あとになって、金だけ取って逃げた女なんて言われたり、話が大きくなる前に、先に整理しといたほうがいいと思って」
少しだけ間を置き、わざとらしく視線を落とす。
「あなたは体裁なんて気にしなくてもいいかもしれないけど、ご両親のことは、少し考えたほうがいいんじゃない?」
突きつけられた明細は、嫌になるほど具体的だった。
二年間、私だって彼に贈り物をしてきた。婚約や結婚にかかる費用も、ほとんど折半だ。
新居の頭金は彼、内装は私。ローンも、二人で返している。
得をするつもりなんて、一度もなかった。
それなのに――彼がここまで細かく記録を残し、両家に破談を伝える前に、別の女に渡して、私に取り立てさせるなんて思いもしなかった。
しかも、その女は――私たちの関係をこじらせた張本人で、圭介が、私がいちばん嫌っている相手だと知っている女だ。
胸の奥が、刃物でえぐられたみたいに痛んだ。
吐き気が、ぞわりとせり上がってくる。
そのとき、真琴が突然、悲鳴を上げて後ずさった。
「ちょっと、何するの!?」
よろめいた拍子に、彼女のスマホが地面に落ちる。
「違う。私は、何もしてない。あなたが勝手に――」
言葉が、途中で途切れた。
彼女は無傷だった。傷ついているのは、爪で皮膚を引き裂かれた私の手だけ。
それでも、誰ひとり、私の声を聞こうとしない。
非難のうねりが、一瞬で私を飲み込んだ。
「ほら、やっぱりね。一見まともそうに見えても、金持ちに取り入って金を巻き上げる女だよ」
無数のスマホが一斉に掲げられ、フラッシュが、目を射抜くように瞬いた。
押し合いへし合いの中で、私は足を取られて倒れ、スマホは弾かれるように遠くへ飛んだ。
レンズが、私の顔、胸元、そしてスカートの奥へと、露骨に狙いを定める。
「仕事にスカート?まともな女の格好じゃないだろ」
「男を引っかけて金を抜くタイプだな。こんなの相手にするくらいなら、風俗の女のほうがマシだ」
「高級オフィスビルから出てきたから、エリートかと思ったら……ただの水商売かよ。はは」
止めに入ろうとした若い女性まで、人波に押し返され、弾き飛ばされた。
震える手で、私は地面に落ちたスマホへと必死に手を伸ばす。
指先が、ようやく触れたその瞬間――
強く踏みつけられ、息が詰まるほどの痛みが走った。
顔を上げると、真琴がこちらを見下ろしていた。
勝ち誇った笑みを、隠そうともしない。
――だが、次の瞬間。
その表情が、凍りついた。
「どけ!」
圭介が、人混みをかき分けて、こちらへ駆け寄ってきた。
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