あなたとの結婚、やめました第1話
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婚約者の長塚昌也(ながつか まさや)と専属秘書の寺田友加里(てらだ ゆかり)が、深夜を過ぎても「おやすみ」とメッセージを送り合っているのを初めて見つけたとき、私たちはそれまでで一番激しい喧嘩をした。
それ以来、彼女と距離を置いてほしいと頼むたびに、彼はわざと友加里との距離を縮めるようになった。そうすれば、私の神経質な性格を直せるとでも思っていたのだろう。
二人で暮らすはずの新居の家具選びには友加里を連れていき、車の助手席にも彼女を座らせた。
私が熱を出して寝込んでいたときさえ、一人きりで置き去りにして、友加里を連れて別邸へ出かけた。
傷ついたと伝えるたびに、昌也はさらに私の気持ちを踏みにじった。
やがて私は、何も求めなくなった。
昌也は、自分がついに勝ったと思ったらしい。
都心の高級マンションの最上階に構えた新居で、引っ越し祝いのパーティーが開かれた日のこと。私は玄関のスマートロックに指を当てた。
――未登録の指紋です。
彼の友人たちが笑った。
「もう諦めなよ、珠理(しゅり)。友加里の指紋なら、とっくに登録されてるぞ」
すると、そのうちの一人がにやりと笑って続けた。
「昌也は、君がキレないほうに賭けたんだ。これくらい受け入れられたら、ようやく長塚家の嫁になる覚悟ができたってことだってさ」
誰もが、私が怒りを爆発させるのを待っていた。
私は赤く光るランプを見つめながら、昌也の望みは、確かにかなったのだと悟った。
もう、どうでもよかった。
「登録しなくていいわ」
私はエレベーターへと向きを変えた。
「結婚式も中止にして」
どのみち、彼のもとを去るつもりだった。もう結婚式を挙げる意味なんてなかった。
* * *
「未登録の指紋です」
赤いランプがまた点滅した。
もう一度、親指をセンサーに当ててみたけれど、結果は変わらなかった。
昌也が都心の高級マンションの最上階を買ったのは、1か月前のことだった。結婚後は、ここが私たちの家になるはずだった。翌日の引っ越し祝いのパーティーに備えて、彼の友人たちが何人か、準備の手伝いに来ていた。
それなのに、私は玄関の鍵すら開けられない。
隣にいた流佳(るか)が笑った。
「もう諦めなよ、珠理。友加里の指紋なら、とっくに登録されてるぞ」
廊下には、グラスを手にした昌也の昔なじみの友人たちが立っていた。全員が私を見ている。
「昌也と賭けをしたんだ」と流佳が言った。
「このことを知ったら、君がキレるかってさ」
別の誰かが口を挟んだ。
「そういえば最近、珠理がようやく物分りが良くなったって、昌也は言ってたっけ。今夜、騒がなければ明日には珠理の指紋も登録するし、結婚式も予定どおりだって」
私は開いたドアの向こうに目をやった。
昌也はウイスキーのグラスを片手に、バーカウンターにもたれていた。ここで交わされている会話は、一言残らず聞こえているはずだ。それでも、友人たちを止めようとはしなかった。
その近くには、新居のクローゼットにあったシャツを着た友加里が立っていた。
私の視線に気づくと、彼女はにこりと笑った。
「準備をしているときに、ブラウスにワインをこぼしてしまったんです。長塚さんが、クローゼットにあるものに着替えていいって言ってくれたので......」
3日前の私なら、とっくに彼に詰め寄っていただろう。
けれど今は、ただセンサーから手を離した。
「そう。もういいわ」
ようやく、昌也がこちらへ歩いてきた。
「何がだ」
「私の指紋を登録することよ」
バッグを肩にかける。
「もう勝手にして」
流佳がにやにやしながら言った。
「帰るのか?騒がずに帰ったら、昌也の勝ちだぞ」
私は足を止めた。
「何を賭けたの?」
「友加里が君より先に出入りできるようになったと知ったら、君がキレるって俺は言ったんだ。で、昌也はもう騒がないって。君はもうわかったはずだって」
だから、みんな私を見ていたのか。
私がどう反応するかを待っていたのだ。
昌也を見ると、彼は至って平然としていた。私たちの関係を友人たちの面白半分の話題にすることに、何の問題も感じていないようだった。
「それなら、おめでとう」
私はエレベーターへ向かった。
昌也が追いつき、私の手首をつかむ。
「どこへ行く」
「帰るの」
「指紋は明日、登録すると言っただろ」
彼は声を低くした。
「気を引きたいからって、わざと追わせるような真似をするな」
私は彼の手を振りほどいた。
「追いかけなくて結構よ」
彼の表情が険しくなる。
「また結婚式を持ち出して俺を脅すなよ」
私の弱いところを、彼はよく知っていた。
「お前、ずっと俺と結婚したかったんだろ」
以前なら、その一言で私は折れていた。
5年前、昌也がまだ長塚財閥の社長になる前、私たちは狭いアパートで一緒に暮らしていた。冬のある夜、海辺の遊園地で、彼は2000円を使って安物の茶色いクマのぬいぐるみを取ってくれた。
そして、かじかんだ私の両手を自分のコートの中に包み込み、いつか誰にも追い出されない家をあげると約束してくれた。
私は、その言葉を信じた。
その家は今、私の背後にある。私より先に、友加里が自由に出入りできるようになった家が。
私は昌也の目をまっすぐに見た。
「わかった」
彼が眉をひそめる。
「何が?」
「結婚はやめましょう」
エレベーターのドアが閉まり始めた。
流佳が一歩、前に出る。
「昌也、追いかけたほうが――」
「放っておけ」
昌也は冷ややかに笑った。
「あいつに行く当てなんかない。今日中には電話してくるさ」
ドアが閉まった。
私は振り返らなかった。
5年間、二人で暮らしたマンションに戻る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
黒いごみ袋を取り出し、部屋の中を片づけ始めた。おそろいのマグカップ、写真立てに飾った写真、旅先で買った思い出の品。一つずつ、袋の中へ放り込んでいく。
スマホの画面が光った。
【もういい加減にしろ】
続けて、もう一通届く。
【明日登録してやるって言っただろ】
私は二通とも読んで、返信せずに彼の連絡先を削除した。
この数か月、昌也は私に思い知らせてきた。彼を愛するということは、どれほど傷ついても飲み込み、自分の感覚を疑い、彼が一線を越えても黙っていることなのだと。
ようやくわかった。彼がどれほど私を愛していようと、私の幸せよりも、私が従うことのほうが大切なのだ。
だから私は、自分のすべてを失い、彼の望みどおりに振る舞うだけの女になる前に、彼のもとを去ることを選んだ。
彼に何も言わなくなったのは、もう変わってくれるのを期待していなかったからだ。
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