和紙文あなたとの結婚、やめました · 第1話設定≡

あなたとの結婚、やめました第1話

この話は約2627字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

婚約者の長塚昌也(ながつか まさや)と専属秘書の寺田友加里(てらだ ゆかり)が、深夜を過ぎても「おやすみ」とメッセージを送り合っているのを初めて見つけたとき、私たちはそれまでで一番激しい喧嘩をした。

それ以来、彼女と距離を置いてほしいと頼むたびに、彼はわざと友加里との距離を縮めるようになった。そうすれば、私の神経質な性格を直せるとでも思っていたのだろう。

二人で暮らすはずの新居の家具選びには友加里を連れていき、車の助手席にも彼女を座らせた。

私が熱を出して寝込んでいたときさえ、一人きりで置き去りにして、友加里を連れて別邸へ出かけた。

傷ついたと伝えるたびに、昌也はさらに私の気持ちを踏みにじった。

やがて私は、何も求めなくなった。

昌也は、自分がついに勝ったと思ったらしい。

都心の高級マンションの最上階に構えた新居で、引っ越し祝いのパーティーが開かれた日のこと。私は玄関のスマートロックに指を当てた。

――未登録の指紋です。

彼の友人たちが笑った。

「もう諦めなよ、珠理(しゅり)。友加里の指紋なら、とっくに登録されてるぞ」

すると、そのうちの一人がにやりと笑って続けた。

「昌也は、君がキレないほうに賭けたんだ。これくらい受け入れられたら、ようやく長塚家の嫁になる覚悟ができたってことだってさ」

誰もが、私が怒りを爆発させるのを待っていた。

私は赤く光るランプを見つめながら、昌也の望みは、確かにかなったのだと悟った。

もう、どうでもよかった。

「登録しなくていいわ」

私はエレベーターへと向きを変えた。

「結婚式も中止にして」

どのみち、彼のもとを去るつもりだった。もう結婚式を挙げる意味なんてなかった。

* * *

「未登録の指紋です」

赤いランプがまた点滅した。

もう一度、親指をセンサーに当ててみたけれど、結果は変わらなかった。

昌也が都心の高級マンションの最上階を買ったのは、1か月前のことだった。結婚後は、ここが私たちの家になるはずだった。翌日の引っ越し祝いのパーティーに備えて、彼の友人たちが何人か、準備の手伝いに来ていた。

それなのに、私は玄関の鍵すら開けられない。

隣にいた流佳(るか)が笑った。

「もう諦めなよ、珠理。友加里の指紋なら、とっくに登録されてるぞ」

廊下には、グラスを手にした昌也の昔なじみの友人たちが立っていた。全員が私を見ている。

「昌也と賭けをしたんだ」と流佳が言った。

「このことを知ったら、君がキレるかってさ」

別の誰かが口を挟んだ。

「そういえば最近、珠理がようやく物分りが良くなったって、昌也は言ってたっけ。今夜、騒がなければ明日には珠理の指紋も登録するし、結婚式も予定どおりだって」

私は開いたドアの向こうに目をやった。

昌也はウイスキーのグラスを片手に、バーカウンターにもたれていた。ここで交わされている会話は、一言残らず聞こえているはずだ。それでも、友人たちを止めようとはしなかった。

その近くには、新居のクローゼットにあったシャツを着た友加里が立っていた。

私の視線に気づくと、彼女はにこりと笑った。

「準備をしているときに、ブラウスにワインをこぼしてしまったんです。長塚さんが、クローゼットにあるものに着替えていいって言ってくれたので......」

3日前の私なら、とっくに彼に詰め寄っていただろう。

けれど今は、ただセンサーから手を離した。

「そう。もういいわ」

ようやく、昌也がこちらへ歩いてきた。

「何がだ」

「私の指紋を登録することよ」

バッグを肩にかける。

「もう勝手にして」

流佳がにやにやしながら言った。

「帰るのか?騒がずに帰ったら、昌也の勝ちだぞ」

私は足を止めた。

「何を賭けたの?」

「友加里が君より先に出入りできるようになったと知ったら、君がキレるって俺は言ったんだ。で、昌也はもう騒がないって。君はもうわかったはずだって」

だから、みんな私を見ていたのか。

私がどう反応するかを待っていたのだ。

昌也を見ると、彼は至って平然としていた。私たちの関係を友人たちの面白半分の話題にすることに、何の問題も感じていないようだった。

「それなら、おめでとう」

私はエレベーターへ向かった。

昌也が追いつき、私の手首をつかむ。

「どこへ行く」

「帰るの」

「指紋は明日、登録すると言っただろ」

彼は声を低くした。

「気を引きたいからって、わざと追わせるような真似をするな」

私は彼の手を振りほどいた。

「追いかけなくて結構よ」

彼の表情が険しくなる。

「また結婚式を持ち出して俺を脅すなよ」

私の弱いところを、彼はよく知っていた。

「お前、ずっと俺と結婚したかったんだろ」

以前なら、その一言で私は折れていた。

5年前、昌也がまだ長塚財閥の社長になる前、私たちは狭いアパートで一緒に暮らしていた。冬のある夜、海辺の遊園地で、彼は2000円を使って安物の茶色いクマのぬいぐるみを取ってくれた。

そして、かじかんだ私の両手を自分のコートの中に包み込み、いつか誰にも追い出されない家をあげると約束してくれた。

私は、その言葉を信じた。

その家は今、私の背後にある。私より先に、友加里が自由に出入りできるようになった家が。

私は昌也の目をまっすぐに見た。

「わかった」

彼が眉をひそめる。

「何が?」

「結婚はやめましょう」

エレベーターのドアが閉まり始めた。

流佳が一歩、前に出る。

「昌也、追いかけたほうが――」

「放っておけ」

昌也は冷ややかに笑った。

「あいつに行く当てなんかない。今日中には電話してくるさ」

ドアが閉まった。

私は振り返らなかった。

5年間、二人で暮らしたマンションに戻る頃には、外はすっかり暗くなっていた。

黒いごみ袋を取り出し、部屋の中を片づけ始めた。おそろいのマグカップ、写真立てに飾った写真、旅先で買った思い出の品。一つずつ、袋の中へ放り込んでいく。

スマホの画面が光った。

【もういい加減にしろ】

続けて、もう一通届く。

【明日登録してやるって言っただろ】

私は二通とも読んで、返信せずに彼の連絡先を削除した。

この数か月、昌也は私に思い知らせてきた。彼を愛するということは、どれほど傷ついても飲み込み、自分の感覚を疑い、彼が一線を越えても黙っていることなのだと。

ようやくわかった。彼がどれほど私を愛していようと、私の幸せよりも、私が従うことのほうが大切なのだ。

だから私は、自分のすべてを失い、彼の望みどおりに振る舞うだけの女になる前に、彼のもとを去ることを選んだ。

彼に何も言わなくなったのは、もう変わってくれるのを期待していなかったからだ。

縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)