機長の夫が、私にだけ見せてくれなかった空の景色第3話
この話は約2094字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
その後の2日間、私は黙々と身辺整理をした。
リビングにある観葉植物は自分で買ったものだったので、隣人の女性にあげた。
バルコニーのロッキングチェアも私が選んだものだったから、中古買取業者に引き取ってもらった。
それでも航は、家から物が消えていることに全く気づいていないようで、ただ最近の私が大人しいことに、満足そうにしているだけだった。
「最初からこうしていれば良かったんだよ」
金曜の朝、航はダイニングテーブルで、私が適当に焼いたパンをかじっていた。
「今日、成瀬さんの誕生日なんだ。夜、同僚たちと集まって食事をするから、君も一緒に行こう」
私のテーブルを拭く手が止まった。
「何で私が?」
「だって、君は何で同僚に会わせてくれないんだっていつも文句言ってただろ?今夜はちょうどみんな揃うから、挨拶がてら顔を出せばいい」
まるで私のためとでも言いたげだった。
確かにかつての私は、航に私を同僚の集まりに連れて行ってほしいとお願いしていた。
しかし、いつも航は「全員パイロットで君が行っても話が分からないと思うから、退屈なだけだよ」と連れて行ってはくれなかった。
なのに今、わざわざ誘ってくるのは陽菜の誕生日だからだろう。
「分かったわ」と私は頷いた。
航の同僚たちが陽菜という人間をどう見ているのか、自分の目で確かめてみたかったのだ。
夜8時、私たちは予約された店に到着した。
個室のドアを開けると、すでに7人の男女が集まっていた。
主役の席に座った陽菜は、白いロングワンピースに身を包み、見覚えのあるネックレスを身につけていた。
それは一昨日、我が家のテーブルで目にしたプレゼントの箱の中身そのものだった。
「坂本機長!奥さんもいらしたんですね!」
陽菜が立ち上がり、嬉しそうに駆け寄ってくる。
「初めまして。航さんからずっとお話を伺っていました。お会いできて嬉しいです!」
陽菜が親しげに私の手を取りに来たので、私はサッと手を引いた。
そして、淡々と言う。「お誕生日おめでとうございます」
場の空気が一瞬だけ凍りついた。
航が私の手を掴み、小声で咎める。「今日、俺の顔に泥を塗るような真似はするなよ」
食事の間、話題はずっとフライトのことだった。
どの航路の気流がどうだとか、管制官がいかに理不尽だとか、そういう話ばかり。
聞いてもさっぱり分からないし、私は理解する気も失せていた。
「それにしても、坂本機長の着陸はいつ見ても安定してますね」
副操縦士のひとりが笑みを浮かべながら、グラスを掲げた。
「成瀬さんなら分かるでしょうね。坂本機長が操縦している時は、コーヒー1つもこぼしたことがないんじゃないですか?」
陽菜が口元を覆ってクスクスと笑う。
「そうですよ。航さんの腕前は業界でも有名ですから。この前の雷雨での飛行の時、私は脚が震えるほど怖かったんですけど、コックピットから航さんが『大丈夫、俺がいるから』って連絡をくれて、その一言で本当に安心できました」
その瞬間、テーブルの全員が囃し立て始めた。
「俺がいるから、だってさ!」
航も一緒に笑い、否定することもなく、むしろ目を細めて愛おしそうに陽菜を見つめている。
私は手元のお茶を飲んだ。すっかり冷めていて、少し渋い。
雷雨でのフライト……
あの一件なら私もよく覚えている。
悪天候で5時間も着陸が遅れていた。何度も電話をしたけれど繋がらず、私は心配のあまり眠れなかった。
なのに、その後やっと届いた返信は一言だけ。【忙しいから、無駄な連絡をするな】
あの時、私を無視していたくせに、コックピットの向こうの陽菜には優しくしていたらしい。
「奥さん、普段から航さんのことはあんまり気にしてないんですか?」
陽菜がいきなり私に問いかけてきた。
「航さんは胃が弱いのに、昨日は朝ごはん抜きでシミュレーター訓練に向かっていて、私たち本当に心配してたんですから」
その声には、隠そうともしない非難の色が滲んでいる。
個室の中がしんと静まり、全員の視線が私に向けられた。
「航だっていい大人ですから、そのくらい自分で管理できますので」私は湯飲みを置いた。
陽菜が面食らって、すぐに瞳を潤ませる。
「別に、深い意味なんてないんです。ただ、私は航さんが少し心配なだけで……」
「千雪、いい加減にしろ」
航が箸を叩きつけて、険しい顔で私を見た。
「せっかくみんなで楽しく食事をしているのに、なぜそうやって場の空気を悪くするようなことを言うんだ?」
「私が何か場の空気を悪くするようなことでも、言った?」私は淡々と航を見返す。
「成瀬さんは俺を心配して言ってくれたのに、なんだその態度は!」
「航」
私は立ち上がり、バッグを手に取った。
「あなたの胃の調子をそんなに気にしてくれる人がいるのなら、もう私が心配することもないね」
「千雪!このまま帰れるものなら、帰ってみろ!」
背後から航の怒号が響いたが、私は一度も振り返らずに、個室のドアを押し開けた。
廊下の冷気が顔にあたり、私は深く息を吸い込む。
8年もの間、私はずっと航のために、自分を押し殺してきた。でももう、それを続ける必要はない。
帰宅後、私は残りの荷物を段ボールに詰め終えた。
あとは来週の水曜日を待つだけ。
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