和紙文機長の夫が、私にだけ見せてくれなかった空の景色 · 第1話設定≡

機長の夫が、私にだけ見せてくれなかった空の景色第1話

この話は約3357字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

私・坂本千雪(さかもと ちゆき)は、坂本航(さかもと わたる)が副操縦士から機長になるまでの8年間、その長い道のりをずっと支え続けてきた。

航が一番忙しかった頃、私は仕事を辞め、彼のフライトスケジュールに合わせて毎日食事を作っていた。

私は一度だけ、航に言ったことがある。「航の見ている空の世界、一回でいいから私に見せてくれない?」

彼は箸を止めることもなく言った。「俺は仕事をしに行ってるんだ。遊びじゃない」

「分かった」と私は答え、それ以来その話は二度としなかった。

それからしばらくして、なかなか寝付けなかった私は、彼の携帯のアルバムの中に、ひとつの非公開アルバムを見つけた。

そこには、コックピットから撮った40枚以上の写真。

雲海、夕焼け、雨上がりのダブルレインボー、上空1万メートルの天の川。

どの写真も同じ相手に送られていて、名前は小熊の絵文字で登録されていた。

一番新しいのは3日前の夕焼けの写真で、翼の端に半分だけ沈みかけの太陽が写り込んでいる。

その写真には彼の言葉が添えられていた。

【今日の夕日も綺麗だった。次来るときは、ジャンプシートに座らせて見せてあげる。そこが一番綺麗に見えるから】

相手からの返信は、ハグのスタンプと一言。【休暇になったらね】

暗証番号もアルバムのデータもそのままに、私は静かに携帯を元の場所へ戻した。

夜が明けると、私はいつも通りコーヒーを淹れ、静かに飲み終えた。

そしてパソコンを開き退職願を書くと、雲嶺市へ行く片道のチケットを予約する。

8年経ってようやく、航のフライト時間に合わせた食事作りはもう終わりにしようと決めた。

航がどこにいるのか、誰もいない家で想像しながら待つのもやめる。

彼の上空1万メートルの世界には、私の居場所はなかったようだ。だから私は地上に根を下ろして、自分の夕焼けを見ることにした。

* * *

私・坂本千雪(さかもと ちゆき)は、坂本航(さかもと わたる)が副操縦士から機長になるまでの8年間、その長い道のりをずっと支え続けてきた。

航が一番忙しかった頃、私は仕事を辞め、彼のフライトスケジュールに合わせて毎日食事を作っていた。

私は一度だけ、航に言ったことがある。「航の見ている空の世界、一回でいいから私に見せてくれない?」

彼は箸を止めることもなく言った。「俺は仕事をしに行ってるんだ。遊びじゃない」

「分かった」と私は答え、それ以来その話は二度としなかった。

それからしばらくして、なかなか寝付けなかった私は、彼の携帯のアルバムの中に、ひとつの非公開アルバムを見つけた。

そこには、コックピットから撮った40枚以上の写真。

雲海、夕焼け、雨上がりのダブルレインボー、上空1万メートルの天の川。

どの写真も同じ相手に送られていて、名前は小熊の絵文字で登録されていた。

一番新しいのは3日前の夕焼けの写真で、翼の端に半分だけ沈みかけの太陽が映り込んでいる。

その写真には彼の言葉が添えられていた。

【今日の夕日も綺麗だった。次来るときは、ジャンプシートに座らせて見せてあげる。そこが一番綺麗に見えるから】

相手からの返信は、ハグのスタンプと一言。【休暇になったらね】

暗証番号もアルバムのデータもそのままに、私は静かに携帯を元の場所へ戻した。

夜が明けると、私はいつも通りコーヒーを淹れ、静かに飲み終えた。

そしてパソコンを開き退職願を書き、雲嶺市へ行く片道のチケットを予約する。

8年経ってようやく、航のフライト時間に合わせた食事作りはもう終わりにしようと決めた。

航がどこにいるのか、誰もいない家で想像しながら待つのもやめる。

彼の上空1万メートルの世界には、私の居場所はなかったようだ。だから私は地上に根を下ろして、自分の夕焼けを見ることにした。

……

「今日は随分と早起きだな」

航がキャリーバッグを引きながら寝室から出てきて、少しだけ眉をひそめた。

私はマグカップを手にしたまま、彼が四本線の入った肩章を白いシャツに丁寧に付けるのを見ていた。

「眠れなかったから、コーヒー飲んでたの」

キッチンカウンターに立った航は、私が自分のために用意していたホットミルクを勝手に飲んだ。

「また深夜までくだらない動画でも見ていたのか?」

「いいえ」

「千雪、最近生活リズムが崩れすぎだぞ」

航は時計を一瞥して、いつものように説教臭い口調で言った。

「これからD国まで飛ぶ。往復で4日だ」

「分かった」

私の落ち着きすぎている反応に、航は少し意外そうな顔をする。

航が海外フライトの場合、いつもの私であれば、胃薬や睡眠薬などをキャリーバッグに詰めて、あれこれ準備を手伝っていた。

さらには、無事に着いたらメッセージを入れてと、しつこく念を押す。

しかし、今日の私はただ椅子に座って航を見つめているだけで、何もしなかった。

「胃薬はどこに入れてくれた?」キャリーバッグの横のポケットを探しながら航が訊く。

「テレビの下の二番目の引き出しに入ってるから、自分で出して」

航の動作が止まり、私を振り返る。

「今日はどうしたんだ?そんなことすら、面倒くさいのか?」

「ちょっと疲れてるだけ」

航はため息をつくと、引き出しを開けて胃薬を取り出し、ポケットに突っ込んだ。

「別にたいした事してないのに、何に疲れることがあるんだ?」

大理石のテーブルに置いていた彼の携帯が光る。

メッセージ通知が表示された。

送り主は例の、小熊の絵文字。

【航さん、D国は冷え込むから厚手の上着を忘れないようにね】

携帯を取り画面を確認した航は、その口元に微笑みを浮かべている。

片手で素早く返信を打ち、キャリーケースのチャックも閉じようとしない。

「仕事の人?」その熊の絵文字を横目に、私は訊いた。

航は携帯の画面を消し、そのままポケットにしまう。

「ああ、成瀬さんからだった。彼女も同じ便に乗るから」

「成瀬さんって、国内線じゃなかったっけ?」

「急遽欠員が出たから、新人育成の手伝いで乗るんだ」

彼の返事はあまりに自然で、言い訳を考える必要さえないというようだった。

航の筋肉質な背中を見ながら、昨晩見た非公開フォルダの写真が頭をよぎる。

どれもこれも、全部航が上空1万メートルの世界から見ている景色。

私には一度も見せてくれなかったその空を、成瀬陽菜(なるせ ひな)にとは全て共有していたのだ。

「航」

「ん?」航は玄関で靴を履きながら返事をする。

「来週の水曜日が何の日か、覚えてる?」

靴を履く航の手は止まらない。

「来週の水曜日?確かシミュレーターの訓練だったはずだと思うけど、どうした?」

「何でもない」

その日は私たちが一緒になってからの8年記念日。

8年前、初めて副操縦士としての辞令を受け取った航が、私を抱きかかえて部屋中をぐるぐる回った日だ。

これからは一番綺麗な空の景色を私に見せる、と約束してくれたのに。

もう、忘れているようだ。

「行ってくる。着いたら連絡するよ」

航がドアを押す。

「航」私はもう一度彼の名前を呼んだ。

ドアノブに手を掛けたまま、航は苛立ちが混じった表情で振り向く。

「何なんだよ?送迎車がもう下で待ってるんだ」

「キャリーバッグのチャックが開いてるよ」

航はキャリーバッグに目をやり、さっと閉めた。

「分かってるよ。今日の君は何だか変だぞ?」

そう言って、彼は出て行った。

部屋の中が再び静寂に包まれる。

私はパソコンの前に座り、先ほど書き上げた退職届を人事部へと送った。

そして飛行機の予約サイトを開き、7日後の雲嶺市行きの片道チケットを購入した。

あと7日。私の8年分の形跡を消すには十分な時間だろう。

すると、携帯が鳴った。親友の吉川南(よしかわ みなみ)からだ。

「退職届出したの?」

「うん」

「決めたからには後戻りできないよ。航さんにはいつ伝えるつもり?」

「ここを離れる日に伝えるよ」

電話の向こうの南がしばらく黙った。

「千雪……あなたは8年もの時間を航さんに捧げたのに、こんなあっさりと終えるつもりなの?」

「もういいの」

私はキッチンカウンターにある、すっかり冷め切ったミルクを見つめる。

「南、彼が誰かに送った夕焼けの写真、あなたは見たことがある?」

「え?」

「すごく綺麗だった。飛行機の翼に反射する光ですら、なんだか優しく見えるくらいに」

私は携帯の画面を裏返し、机に置いた。

「残念だけど、それは私へのものじゃなかったの」

縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)