月明かりの下でさよならを第3話
この話は約1610字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
夜になっても、南雄は約束通り茜を迎えに来なかった。
代わりに現れたのは、病院の同僚の研修医だった。
青年は茜を見るなり、興奮したように喋り始めた。南雄への憧れを熱く語るのだ。
「姉さん、知ってます?笠原先生って本当にすごいんです!医術もさることながら、奥さんへの優しさが半端ないんですよ」
茜がちらりと視線を向けると、研修医はさらに勢いづいた。
「昨日だって、奥さんが生理痛で苦しんでるって聞いたら、先生は慌てて救急に連れ込んだんです。私がついてきた3ヶ月間で、あんな慌てた先生を見たことありませんよ。
救急の医師にまで怒鳴っちゃって、それからずっと奥さんのそばで、手を擦って温めたり、お腹を優しくさすったり、薬を飲ませたり……
あの優しさ、私が奥さんだったら幸せのあまり死んじゃいますよ。来週には結婚式だそうですし、本当にお似合いのカップルで羨ましいです」
青年は一気にまくし立ててから、ようやく茜の異常な沈黙に気づいた。
「姉さん……先生の妹さんですよね?」と不安そうに尋ねた。
茜はゆっくりと車窓のガラスに視線を移した。街灯に照らされ、粉々に割れたように見える自分の虚ろな顔が映っている。まるで、今の自分の心のようだった。
「ええ、妹よ」
彼女は淡く答えた。声には尽きせぬ寂寥感と自嘲がにじんでいた。
研修医の話の中で、彼女は完全な部外者になっていた。南雄が別の女性に注ぐ愛情を、冷ややかに眺める観客に。
彼女が自分のものだと思っていた愛は、最初から存在しなかったのだ。
個室の前まで来ると、中から賑やかな声が聞こえてきた。「キス!キス!」という囃し立てが、茜の鼓膜を刺すように痛かった。
無邪気な研修医が先に立ってドアを開けた。その瞬間、個室の中の光景が茜の目の前に広がった。
スポットライトを浴びた二人の影が、今まさに唇を合わせようとする寸前で、密着していた。
ちょうどその時、南雄の視線が入口に流れ、茜の存在に気づいた。
彼の体が硬直し、慌てて顔を背けた。そのため、希枝の唇は彼の頬に触れることしかできなかった。
一瞬、南雄は茜の平静な目を見た。
怒りも悲しみもない、ただ冷たい静けさだけがそこにあった。
茜もまた、南雄の目に一瞬浮かんだ「未練」の色を、はっきりと捉えた。
南雄は素早く立ち上がった。動作は慌てていて、目にはっきりとした不安がにじんでいた。
急いで手を伸ばし、茜の手を引っ張ってぎゅっと握りしめた。まるでそうすることで、彼女に自分の誠実さを伝えられるかのように。口早く言い訳した。
「茜、ただのゲームだったんだ。誤解しないで……」
茜の顔には依然として薄ら笑いが浮かんでいた。彼女は南雄の言葉を遮り、あたかもどうでもいい小さなことに返事をするかのように言った。
「信じてるわ」
南雄はその言葉にハッとした。口をぱくぱくと開けたが、言おうとしてやめた。目に見える慌てぶりはますますはっきりした。
その後、彼は手を伸ばして茜の肩を抱き寄せ、わざと声を張り上げて、個室にいる皆に向かって言った。
「みんな、いい加減に騒ぎを控えめにしろ、俺の大切な人を怖がらせたら、許さないからな」
その時、希枝がしなやかに立ち上がった。
ぴったりのストラップドレスを纏い、歩くたびにその曲線がゆらゆらと揺れた。
彼女は茜に向かって歩み寄り、親しげな笑みを浮かべて言った。
「茜、こんにちは、ご無沙汰ね」
希枝の視線は茜と南雄の間を行き来し、からかうような笑みを浮かべ続けた。
「聞いたわ、南雄と結婚するんだってね」
しかし、茜が口を開いて答えようとするよりも先に、南雄はまるでどこか脆い神経に触れられたかのように、思わず言葉が飛び出していた。
「違うっ!」
その一言は、一切の躊躇もなく、断固たる口調で言い切られた。
希枝は口を手で覆いながら、意味ありげな笑い声をあげた。その笑い声は、やや気まずい空気の中で殊更に耳障りに響いた。
一同は顔を見合わせて、皆一瞬どうしていいかわからない様子だった。
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