月明かりの下でさよならを第1話
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笠原南雄(かさわら みなお)と付き合い始めて五年目。
門司茜(もんじ あかね)は密かに婚約指輪を買い、勇気を振り絞って彼にプロポーズするつもりだった。
しかし運悪く、その日、パーティーに数分遅れてしまった。
ちょうど彼が友人と話しているのを耳にした。
「お前、周防希枝(すおう きえ)のために茜と五年も付き合っただけでも十分なのに、今度は彼女と結婚までしようって?正気か?」
南雄の声は冷ややかだった。
「希枝が幸せになれるなら、愛していない相手と結婚することだって厭わない」
だが、今回は茜は騒ぎ立てなかった。
指輪を投げ捨て、ラブレターを切り裂いた。
そして深夜の便に乗って去り、家同士の縁談に縋る道を選んだ。
* * *
笠原南雄(かさわら みなお)と付き合い始めて五年目。
門司茜(もんじ あかね)は密かに婚約指輪を買い、勇気を振り絞って彼にプロポーズするつもりだった。
しかし運悪く、その日、パーティーに数分遅れてしまった。
ちょうど彼が友人と話しているのを耳にした。
「お前、周防希枝(すおう きえ)のために茜と五年も付き合っただけでも十分なのに、今度は彼女と結婚までしようって?正気か?」
南雄の声は冷ややかだった。
「希枝が幸せになれるなら、愛していない相手と結婚することだって厭わない」
だが、今回は茜は騒ぎ立てなかった。
……
「お母さん、私、縁談を受けるわ」
明かりの灯っていないリビングに、茜の声が幽かに響いた。
はっきりと聞き取れる口調でありながら、その響きには底知れぬ虚ろと荒れが漂っていた。
電話の向こうで、母の理子(りこ)はわずかに息を呑んだままだった。
「茜、本当に決めたの?
私もお父さんも、あの彼氏と結ばれてほしいって思っていたけれど、あれほど何度も招待しても彼は一度も会いに来ないじゃない。茜、あの人は良い人じゃないのよ」
茜は答えず、ただ静かにその場に立ち尽くしていた。
暗闇に浮かぶ寂しげな姿は、ますます細く頼りなく見え、弱い風でも吹けば倒れてしまいそうだった。
理子の声はやわらぎ、まるで幼い頃、茜が傷ついたときにあやしていたあの声音になる。
「茜、今はつらいだろうけど、それでも日々は前に進まなきゃならないのよ。縁談の相手は周藤家の次男、周藤承平(すとう しょうへい)さん。商界でも名高い家柄だし、彼自身も見た目が良く、若くして医学界で頭角を現している人よ」
茜の目は空虚なまま、前方を見据えていた。
耳に届く言葉は何一つ心に入らず、思考はまだ南雄の裏切りに囚われている。
かつての甘い誓いは、今や最も残酷な嘲笑となっていた。
「お母さん、あなたたちが安心できるなら、誰と結婚しても同じよ」
その声音には一片の波立ちもなく、まるで凍りついた水面のようだった。
理子の胸に鋭い痛みが走り、涙が目に滲んでいる。
「馬鹿な子……私たちはただ、あなたに幸せになってほしいだけ。周藤さんなら、時間が経てばきっと好きになれるかもしれないわ」
茜は「うん」とだけ答えた。
「そうだわ、帰ってきたらあの笠原先輩にちゃんとお別れを言いなさい。この南城市で暮らせたのも、彼のおかげなんだから。結婚するときは、必ず招待して祝い酒を飲んでもらわないと」
茜は一瞬黙し、それから低く答えた。
「駄目よ。あの人は、その祝い酒を飲めない」
別れを告げる?結婚式に招待する?
心の中で茜は苦く笑った。なんて皮肉なことか。
電話を切った直後、玄関からかすかな物音がした。
すぐにリビングは明るい光に包まれた。
家にいる茜を見つけ、南雄は一瞬驚き、その後、満面の笑みを浮かべた。
彼は足早に近寄り、いつものように茜をそっと抱き寄せ、柔らかく問いかけた。
「うちの茜ちゃんを怒らせたのは誰だ?」
そう言いながら、首筋に頬をすり寄せ、口づけようとした。
茜はわずかに顔をそらし、その仕草をかわし、無表情で言った。
「お酒臭いわ。先にシャワーを浴びてきて」
南雄は茜の頬を軽くつまみ、笑みを浮かべて答えた。
「はいはい、姫のご命令だ。じゃ俺、ピカピカに洗ってまいります」
浴室へ向かいかけた彼は、ふと思い出したように足を止め、興味深げに尋ねた。
「そういえば、誰に祝い酒を飲ませるって?誰かの結婚式のことか?」
私のだ。
心の中でそう呟きながら、口では淡々と答えた。
「誰でもない、身内よ」
その言葉を聞き、南雄の眉間のしわはすぐに消え、再び軽やかな表情に戻った。
「そうか。じゃあ、俺たちが結婚するときは、皆呼ぼうな」
遠ざかっていく背中を見つめ、茜の口元にかすかな苦笑が浮かんだ。
真実が明らかになった瞬間、かつての甘さも愛も、跡形もなく消え去った。
残ったのは、果てしない痛みと絶望だけ。
もう、結婚することはない。
テーブルの上で、突如として振動音が響いた。南雄のスマートフォンだった。
覗くつもりはなかった。
だが、立ち上がった拍子に、ふと目に入ったその画面に、見覚えのあるアイコンと「ONLY」という目立つ登録名があった。
しかも、その相手は茜のLINEの友だちリストにも存在していた。
画面に浮かんだ新着メッセージに、視線が吸い寄せられた。
【南雄、彼はもう私のことを要らないの。希枝には、もうあなただけ】
その瞬間、冷たい電流が全身を走った。
手足の感覚が失われ、呼吸が少し遅れ、頭は真っ白になった。
やがて、南雄が浴室から出てきた。
茜はウォーターサーバーの前で、機械のようにコップに水を注いでいた。
手が震え、水はこぼれそうになっている。
南雄は何気なくスマートフォンを手に取った。次の瞬間、顔色は一気に蒼ざめ、瞳には緊張が浮かんだ。
彼はためらうことなく寝室へ駆け込み、慌てて上着を羽織っている。普段は几帳面な彼が、このときばかりはボタンを掛け違えていることにも気づかなかった。
彼が足早にドアのところまで歩いて行ったとき、ようやくテーブルのそばでずっと一言も発せずに立っていた茜のことを突然思い出したようだった。
「茜、これから手術があるんだ。ちょっと行ってくる」
茜は平静な笑みを浮かべた。
「ええ、行ってらっしゃい」
彼は芝居を続け、希枝のもとへ急ぐ。ならば、自分も最後までこの芝居に付き合ってやろう。
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