愛の終止符、それぞれの明日へ第3話
この話は約2901字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
圭は、美陽の半歩後ろを黙ってついてきた。何度か差し伸べた手は、そのたびに彼女に拒絶された。
彼はただ、壊れやすいガラス細工を見守るかのように、慎重に距離を保って寄り添うことしかできなかった。近づくことも、離れることもできずに。
病院の入口に差し掛かった瞬間、冷たい風が細かな雪を巻き込んで吹きつけた。薄着の美陽の体が思わず縮こまり、その顔色は雪景色に溶け込みそうなほど白くなった。
「風邪を引くぞ」
圭はすぐに自分のコートを脱ぎ、美陽の肩にかけようとした。
「いらないわ!」
美陽は腕を振り上げ、差し出された服を拒んだ。厚手の生地が手の甲をかすめ、わずかな冷たさが走る。
「美陽、意地を張るな。手術の直後なんだ、体を冷やしてはいけないぞ」
圭の声には、焦燥と痛みが混じっていた。
美陽は足を止め、彼を振り返った。その瞳はまだ赤く腫れていたが、もう涙がこぼれることはなかった。
「意地を張ってるわけじゃない」
風にさらわれそうなほど、か細い声だった。
「……ただ、もう必要ないの」
圭の瞳がわずかに揺れ、コートを握る指先に力がこもった。
「あなたの看病も、心配も、全部いらない」
美陽は一度言葉を切り、彼の傍らを通り過ぎて、どんよりとした灰色の空を見つめた。
「……そして、あなたも。もういらないのよ」
圭が何かを言いかけたその時、鋭い着信音が、二人の間に流れる冷え切った空気を切り裂いた。
画面を見た彼の眉間が、ぴくりと跳ねる。
電話の向こうからは、聞き覚えのある女性の声が響いた。
「圭!早く幼稚園に来て!幸人がずっと泣き止まないの。パパがいいって叫んで、先生が何をしてもダメ、私もお手上げよ。早く来て、あの子の様子が普通じゃないわ!」
圭の瞳に、嵐の前の暗雲のような陰りが落ちた。
スマホを握る指の関節が白く浮き出る。視線は、目の前の青ざめた美陽と、風雪の向こうにいるであろう、胸を締め付けるほど愛おしい息子の姿との間で激しく揺れ動いた。
板挟みになり、進むことも退くこともできない。
冷え切った空気の中で時間が引き延ばされ、刃のように神経を削っていく。
彼は一度目を閉じ、全身の力を振り絞るように、重苦しい声で答えた。
「分かった。すぐに行く」
美陽の心に、小さな痛みが走った。けれどその痛みは一瞬で消え去った。静かな水面に投げ込まれた小石のように、波紋さえろくに広げられない。
美陽は圭を見つめ、血色のない唇をわずかに動かした。
「圭、弁護士に離婚協議書を作らせて。私たち、離婚しましょう」
「美陽、離婚なんて冗談を言うな。お前は今、冷静じゃないんだ。落ち着いてからまた話そう、いいな?」
「いいえ、冷静よ」
美陽の声は低く、けれど確かな響きを持っていた。
「今までの人生の、どの瞬間よりも冷静だわ」
彼女は淡々と、言葉を紡いでいく。
「私たちは、最初から間違いだったのよ。
私が世間知らずだった。こんなに複雑で困難なことだと見抜けずに飛び込んで、二人を逃げ場のないところまで追い詰めてしまったの」
喉の奥が震えるのを、美陽は自覚していた。
「あなたを崖っぷちに立たせ、私自身も細い綱の上で怯えながら過ごす。そんな状況に追い込んでしまった。
あなたの苦しみは理解できるわ。幸人に対する責任も、罪悪感も。あなたの立場なら、それ以外の選択肢はなかったのかもしれない」
美陽の視線は、残酷なほど澄んでいた。
「……理解できることと、受け入れられることは別なのよ。
自分の結婚生活が、常に別の子供の機嫌の後に回されるなんて耐えられない。リスクがあるからという理由で、私の子が切り捨てられることも。
そして、自分自身が永遠に『待ちぼうけ』と『妥協』、そして『いつ犠牲にされるか分からない』の中で生きていくなんて、もう無理なの」
美陽は静かに息を吸い込んだ。冷たい空気が肺を突き刺す。
「もう終わりにしましょう。二人とも、疲れ果ててしまったわ」
言い終えると、彼女はゆっくりと歩き出し、通りがかったタクシーを止めた。
ドアが開いた。美陽は一度も振り返ることなく、車内へと身を沈めた。
マンションの入り口でタクシーが止まった。
代金を払い、ドアを開けた。
吹き付ける寒風と細かな雪に、美陽の細い体はよろめいた。無意識に下腹部を押さえた。
そこには依然として重苦しい痛みが残り、たった今失ったものの存在を突きつけていた。
一歩また一歩、這うようにしてエレベーターに乗り込み、鍵を開けた。
部屋の中は静まり返り、朝出かけた時のままだ。
昨夜の狂乱の跡も寝室に残されたままで、空気の中にはまだ、言い争いや涙、そして砕け散った心の欠片が漂っているようだ。
かつて希望に満ちて飾り立てたこの空間が、今は巨大で冷たい墓穴に見えた。三年の青春、愛、そしてこの世に出ることのなかった命を埋葬するための墓穴に。
明かりを点ける気にもなれず、窓からの薄暗い光が家具の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせるに任せた。
美陽はクローゼットへ向かい、一番大きなスーツケースを引き出すと、荷物をまとめ始めた。
麻痺したような手つきで、自分の持ち物を一つ、また一つと剥がし取っていく。この部屋から自分の痕跡を、少しずつ消し去っていく。
物がなくなるたびに、家の中にぽっかりと穴が開き、見知らぬ場所へと変わっていく。
半分ほど片付けたところで、息が切れ、美陽は冷たいクローゼットの横に座り込んだ。
下腹部の鈍痛が波のように押し寄せ、体の芯が凍りつくような虚無感に襲われる。
二年間過ごしたこの寝室を見渡した。荒れた床、そして大きいダブルベッド。
幾晩、ここで圭の帰りを待ち続けたことだろう。期待に胸を膨らませていた日々から、いつしか孤独に慣れてしまった日々まで。
幾朝、圭の腕の中で目を覚まし、これこそが永遠だと信じ込んでいたことだろう。
二十二歳の時、自分は飛んで火に入る虫のように、彼の深く落ち着いた瞳の中に飛び込んだ。彼こそが一生の拠り所だと信じて。
二十四歳の時、幸福と不安を胸に抱き、彼の花嫁になった。ようやく自分たちの巣を築けたのだと思った。
この部屋は、自分が大人へと変わる中で抱いた最も熱い感情の証明であり、同時に、この不対等な関係の中で、自分の情熱と期待と勇気がいかに削り取られていったかの目撃者でもあった。
彼が帰るのを待つ。彼の手が空くのを待つ。幸人が受け入れてくれるのを待つ。不確かな未来を待つ。
自分は敬虔な信者のように、決して訪れることのない奇跡を待ち続けていた。
けれど今、夢は覚めた。奇跡は起きず、訪れたのは鮮血の滲むような決別だった。
棚を支えに、美陽はゆっくりと立ち上がった。
もう、一刻もここにはいられない。一秒ごとに、空気が重くのしかかり息ができなくなる。
美陽は速度を上げ、最後の数着を詰め込んでスーツケースを閉じた。
立ち上がり、最後にもう一度だけ部屋を見渡す。
未練はなかった。ただ、極限の疲労から解放されたような、静かな諦念だけがあった。
スーツケースを引き、玄関へと向かう。荒れ果てた部屋を最後に一瞥した。
靴箱の上に鍵を置くと、彼女は外へと踏み出した。
背後には、閉ざされた過去と、散らかった残骸、そして、二度と戻ることのない歳月が取り残されていた。
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