愛しき日々の果て、余生は安らかに第1話
この話は約2407字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
結婚して三年、橘正明は三年間、妻の千里を憎み続けていた。
雅美が戻ってきたあの日、彼の限界はついに訪れた。
彼は「偽装死」を計画し、雅美と駆け落ちしようとしていたのだ。
「一ヶ月後、死んだことにする。
橘家の後継者という肩書きを捨てて、これからはずっと雅美と一緒に生きていく」
手術室でその言葉を聞いてしまった千里は、すぐさま弁護士に連絡し、離婚届の提出を依頼した。
そして、遠く海外にいる兄に電話をかける。
「兄さん、もう、正明のことはあきらめた。
一緒に、海外で暮らすよ」
* * *
橘千里(たちばな ちさと)は、夫の橘正明(たちばな まさあき)が連続で十二戦ものボクシングの試合をこなし、肝臓を損傷したと聞き、急いで病院へ駆けつけた。
迷うことなく自らドナーに名乗りを上げ、輸血のための検査を受けた後、病室へと連れていかれた。
一気に1000mlもの血液を抜かれた。
体から血が引き抜かれるたびに、意識はどんどん遠のいていく。
どれほどの時間が経ったのか、もう分からない。
ぼんやりとした意識の中、耳元でどこかで聞き覚えのある声が響いてきた。
「正明、あんた、雅美のことそんなに好きだったの?
インスタに『そのネックレスが好き』って載せただけで、命懸けで試合して、わざわざそのネックレスを手に入れに行ったってわけ?十二戦連続とか、命捨てる気かよ!?
今度は交通事故で脚に火傷した雅美のために、自分の妻の血を1000mlも抜いて、さらには皮膚まで移植しようとしてるって?
千里さんがこれまで橘家やあんたのためにしてきたこと、みんな知ってるよ?それなのに、あんまりじゃない?」
千里の指先が、無意識に手のひらへと喰い込む。
正明が十二戦もの試合に挑んだ理由は、ただ雅美の欲しがったネックレスのため?
肝臓の損傷だって、全部嘘?自分の血を使うための演技?
眠らされて、手術台に運ばれて、皮膚を剥がされるなんて……それも全部、雅美のためだったの?
部屋の空気が一気に凍りつく。
「千里みたいなやつ、俺がどう扱おうが関係ないだろ」
正明の声が低く、枯れていた。
「三年前、あいつが無理やり結婚を迫ってきて、雅美は海外に行った。俺がどれだけ探しても見つからなかった。その三年間、俺は抜け殻みたいに生きてきた。
昨日ようやく雅美が帰ってきて、今日いきなり事故に遭った。千里の手は汚れてる。血を抜こうが皮膚を使おうが、それが当然の報いだ。
命を取れと言われたとしても、それも仕方ない。雅美を追い出した責任は、すべてあいつにある。それが償いだ。
……けど、あいつの命には興味ない。俺にはもっと大事なことがある」
その言葉に、千里の血は凍りついた。体の震えが止まらない。
「お前、今は結婚してるだろ……それでも、まだ何をしようってんだ?」と、篠原冬也(しのはら とうや)が恐る恐る尋ねた。
「一ヶ月後、死んだことにする。
橘家の後継者という肩書きを捨てて、これからはずっと雅美と一緒に生きていく」
かろうじて開いた瞳で、千里は声の主を見つめる。
正明の体は傷だらけで、声を出すのも辛そうだったが、それでも指先の血を拭い、あのネックレスをぎゅっと握り締めていた。
真っ赤に腫れた目には、狂気に近い執着と深い情が宿っていた。
その目を、千里は三年間、一度も見ることがなかった。
千里の前では、正明はいつだって無表情だった。だが、雅美のことになると、まるで別人のように感情を露わにする。
メスが皮膚を切り裂いた痛みよりも、胸に突き刺さるような苦しみの方が千里の呼吸を奪った。
正明は、東都でも一、二を争う名門・橘家の御曹司。容姿も頭脳も優れ、どこへ行っても注目の的だった。同年代の女子たちは皆、彼に憧れていた。
千里もその一人だった。
けれど、千里はわかっていた。正明の視線が、決して自分に向くことはないと。
彼が想いを寄せていたのは、橘家の養女であり、幼なじみの橘雅美(たちばな まさみ)だった。
放課後、彼女の好きなアイスを届けるために走って帰る。雅美が高熱で寝込んだときは、学校を抜け出してまで看病する。
「ボクシングしてる男ってかっこいいなぁ」
その一言で、彼は何年も拳を握り続けた。
他の誰も、彼の目に入ることはなかった。
千里には、最初からチャンスなんてなかったのだ。
全てが変わったのは、橘家の祖父が、正明と雅美の関係に気づいたとき。命を懸けて雅美を海外へ送り、正明に千里との結婚を命じた。
祖父が入退院を繰り返す中、正明はついに折れ、千里との結婚を承諾した。
けれどその直後、祖父が千里に「願いが叶ってよかったな」と言ったことを聞き、それを千里が仕組んだと誤解した。
それから、彼は千里を深く憎むようになった。
だが知らなかったのだ。正明の秘密を祖父に伝えたのは、他でもない、雅美だった。
それは、正明が仇敵に拉致され、生死不明になったときのこと。雅美は祖父に二十億円を条件に、自ら国外へと姿を消すと申し出たのだった。
「橘家の後継者が殺された」という噂が広まり、橘財閥の株は暴落した。その窮地を救ったのは千里だった。あらゆるリスクを背負い、表に立ち、正明を取り戻した。
世間の目を避けるため、両家は三年間の契約結婚を決めた。
千里は、何度も説明しようとした。だが、結婚してからの三年間、正明は彼女に対して、仇を睨むような視線しか向けなかった。
同じ家に住んでいても、まともに会話すらしなかった。
証拠を突きつけても、一瞥すらくれなかった。
一昨日、雅美が帰国した。そしてその直後、交通事故に遭った。
それだけで、正明は「千里の仕業」だと決めつけた。
千里の頬を、涙がとめどなく伝っていく。喉には言葉にならない塊が詰まり、呼吸すら苦しい。
看護師に付き添われて正明が病室を出て行った後、千里は別の病室に移された。
麻酔が切れたあと、震える手で兄・小林涼真(こばやし りょうま)に電話をかけた。
「兄さん。もう、正明のことはあきらめた。
一緒に、海外で暮らすよ」
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)