情は深くとも、初恋には敵わない第3話
この話は約1682字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
結局、明輝の誕生日には私も顔を出した。
会社が用意してくれる社宅はまだ整っていなかったし、支社へ行くことも彼に話すつもりはなかった。
離婚のことまで考えていた。
けれど、どう切り出せばいいのか分からなかった。
せめて最後に、もう一度だけ彼の誕生日を一緒に過ごそうと思った。
何年か夫婦として過ごした、その情けだと思えばいい。
今回は、自分の好きなように黒のロングワンピースを着た。
明輝はそれを見て、わずかに眉をひそめた。
「ゆず、なんでそれ着てるの?
クローゼットに白いのがあっただろ、そっちじゃだめなの?」
また私の選択に口を出してきた。
「汚れちゃって、もう落ちないの」
明輝は私の言葉の含みに気づかず、時計をちらりと見て、急かすように言った。
「わかった、じゃあ早く行こう。学生たちを待たせたら悪い」
……
学生たちが予約した個室に着き、扉を開けた瞬間、紙テープと歓声が一斉に飛んできた。
個室はやけにロマンチックに飾りつけられていて、白いリシアンサスが部屋いっぱいに並べられていた。
私はそっと明輝を見た。
彼の目の奥に、言いようのない色が一瞬よぎった。
直後、個室の反対側の扉が開いた。
白いワンピースをまとった、物腰の柔らかな女性が姿を現した。
私と同じ黒いストレートの長い髪に、私とよく似た小ぶりの真珠のピアスをつけていた。
その人は、澪だった。
やっぱり、「サプライズ」として現れたのだ。
「明輝、久しぶり。誕生日おめでとう。」
澪は柔らかく、控えめに微笑んでいた。明輝はその場で固まり、思わず私の手を離した。
「澪……いつ帰ってきたんだ?」
「昨日着いたばかり」
澪の視線が彼越しに、するりと私へ向けられた。
「桜庭さん、ですよね。明輝からよく聞いています」
私は軽くうなずき、愛想笑いを返した。
席に着くと、学生たちは「学生時代の思い出話」や「ゲーム」という口実で、当然のように明輝と澪を隣同士に座らせた。
二人は大学時代のエピソードを語り合い、研究室での徹夜を懐かしんでいた。
それは、私が決して入り込めない二人だけの過去だった。
輪の真ん中で、私の夫は初恋の相手と目を合わせて笑っていた。
そして、最初から最後まで、私のところに見ていなかった。
誕生日ケーキは、二段重ねのフォンダンケーキだった。
代表となる学生が最初の一切れを切り分け、澪に差し出した。
「はい!最初の一切れは絶対、水城先輩に!」
そのとき、誰かに後ろから押されたのだろう。
私の前にいた人のワイングラスが大きく傾いた。
赤ワインがこちらへ飛んできた。
見えていたから、反射的に身をかわそうとした。
でも、すぐ後ろには澪が立っていた。
明輝が素早く手を伸ばし、澪を自分の胸に引き寄せた。
その動きに巻き込まれ、私はよろけてテーブルに背中を打ちつけた。
残っていた半分のワインが、私にかかった。
赤い液体が髪の毛先からぽたぽたと垂れる。
一瞬で、私はひどくみっともない姿になった。
なのに。
「澪、大丈夫?かかってない?」
明輝は焦った様子で澪を確かめ、無事だと分かるとほっと息をついた。
そこでようやく、私の存在を思い出したように。
彼は振り返り、赤ワインに染まった私の蒼白な顔を見て、気まずそうに口を開いた。
「ゆず……ごめん。今ちょっと気づかなくて。大丈夫か?」
私はとても静かだった。
けれど、がっかりしていた。
ドレスは汚れた。
そして、さっき彼が見せた本能的な動きが教えてくれた。
私たちの関係は、こんなにも濁りきっていたのだと。
騙され続け、それでも幸せだと信じていた愚かな妻。
自分にも相手にも嘘をつく卑怯な夫。
「大丈夫」
私は立ち上がり、明輝の横を通り過ぎた。
唇の端にかすかな笑みを浮かべている澪の横も通り過ぎた。
学生たちは面白そうにこちらを見ているだけだった。
私はお手洗いへ向かい、ワインの染みを少しずつ洗い流そうとした。
水が肌を打ち、冷たくて、骨まで沁みた。
三年間の馬鹿げた夢が、ようやく終わろうとしていた。
そのとき、支社の松本さんからメッセージが届いた。
【桜庭さん、マンションの準備が早めに整った。明日からいつでも入居できるよ】
私はスマホを手に取り、文字を打った。
【はい】
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