御曹司の悔恨~捨てたメイドが一番愛された~第3話
この話は約1845字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
メイド部屋がこれほど混雑したことはなかった。
栞はさっきまでの不満を顔から消し去り、私のベッドの傍らで泣きながら薬を塗ってくれる。
「痛いの?」
そう言いながら、綿棒で私の傷口にぐっと力を込めて押し付ける。
痛みに歯を食いしばりながら、私は首を横に振る。
視界の隅で、京志が瞬きもせず見つめているのがわかる。彼もきっと、栞の悪意などとうに気づいているはずだ。
それでも京志は、ポケットに手を入れたまま黙っている。
薬を塗り終える頃、額には冷や汗がにじんでいた。
京志は私に目もくれず、代わりにハンカチを取り出し、栞の目尻の涙をぬぐう。
「泣くな。それは彼女の務めだ。ましてや、仕事もろくにできないな」
そして、栞はすぐさま彼の胸元に身を寄せる。
私は顔を背け、二人の姿を見ないようにした。
机の上に一輪の枯れた花が置いてある。京志からもらったものだから、大切にしているが、今ではすっかり枯れ果てている。
栞を見送った京志は、私の方へと向かった。
唇を結び、無表情のまま口を開いた。
「栞は子供っぽいところがある。さっきのことは気にするな」
軽い口調だけど優しさが滲み出る。その口元に愛おしげな気配が漂った。
「彼女は本当は可愛らしいんだ。
ただ、俺たちのことも知っているから、感情をぶつけるのも仕方がない。
許してやれ」
そして、声を落として続ける。
「婚約は数日後だ。その時、お前は海外でも行って気分を変えてこい」
京志は咳払いをして、表情を引き締める。
「これから彼女と生きていくんだ。彼女のこと、悪く思わないでほしい」
私が栞の世話をおろそかにしないように、先に釘を刺しているのだろう。
けれど、もし本当に海外旅行をするなら。一層のこと、このまま戻らなければいい。
京志は私が黙っているのを了承とみなし、いくつか指示を残して去っていった。
すぐにかばんを取り出し、着替えと重要な書類を詰め込む。
ここで二十年余り過ごし、いつしか「家」だと思うようになっていた。
それでも、もう留まる勇気はなかった。
かばんの中には、京志が十五歳のとき、神社で求めてきてくれたお守りも入っている。
「一生、俺のそばで平穏に暮らしてほしい」そう言ったみたい。
しばらくの間、物思いに沈け、やがてそれを取り出した。
断ち切るのなら、未練がましくしてはいけない。
ここ数日、栞は京志家に滞在している。
婚約式の日が、私の離れる日と同じだと初めて知る。
栞は私と京志を二人きりにさせなかった。
まだケガの残る私を無理やり木に登らせ、花を摘ませ、水に入れて魚を捕らせる。
再び傷だらけで転落し、水中で彼女に押さえつけられ、息も絶え絶えになってようやく解放された。
なのに、彼女の潔いほど澄んだ瞳と、天真爛漫な笑みには悪意のかけらも見えなかった。
彼は何もかも知っているのだ。
それでも、私に我慢して欲しいと。
「ただ感情を発散したいだけだ。少しだけ付き合ってやろう」
私は反論せず、夜更けにひとりで薬を塗った。
婚約式の前日、私は広々とした一室に案内された。
京志の黒いタキシードは凛々しく、彼女の純白のドレスはまばゆいほどに輝いている。二人が並ぶ姿は、誰が見ても絵のように美しかった。
彼と視線がぶつかった瞬間、頬が思わず赤くなるのを感じた。
そんな私の前に、栞がカメラを突きつけた。
「安希さん、写真を撮ってくれない?
このドレスすごく気に入ったんだけど、残念ながらお蔵入りになっちゃっうの」
彼女はそう言って京志に抱きつく。
なんて天真爛漫な笑顔だろう。だが、私に向けられるときだけは、底知れぬ悪意が宿る。
私は震える手でカメラを持ち上げ、レンズ越しに、栞を見つめる彼の優しい笑みが見える。
そんな京志は、ベッドの中だけだった。もう二度と、会うことはないだろう。
最後のキスシーンを終え、手が重く感じられカメラも支えられず、栞に返した。
栞は嬉しそうにカメラを受け取り、私の腕前を称えた。
京志は私の様子に気づいたようで「どうした?」と声をかけた。
私はうつむき続けていたが、やがて顔を上げて大げさに笑ってみせる。
「何でもありません」
それ以上は何も言わず、私を帰らせた。
二人の笑い声がまだ耳に残っている。
翌日、婚約式を終えた直後、京志から航空券メールが届いた。
すぐ後に、もう一通。
【外出中は気をつけて。家で待っている】
京志にしては珍しいことだった。
昔なら、すぐ返信してスクショも保存、布団の中でにやにや眺めつつ、次の気遣いを待ちわびていたのに。
今は、ちらりと一瞥するだけでメッセージを削除し、荷物を持って潔く立ち去った。
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