彼女しか救わなかったから、子どもが死んでも泣かないで第3話
この話は約2981字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
病室の中。
怜司は悠真が海外にいる間、星乃にどれほど冷たく接していたかを、まるでその場を見ていたかのように臨場感たっぷりに語っていた。
「ある年なんてさ、星乃がリストカットして、自殺をほのめかす写真まで悠真に送ったんだって。でもさ、どうなったと思う?」
「悠真、その写真を見ても一切反応せずに、家に帰ってきて玄関から星乃を放り出したらしいよ。『死ぬなら外で死ね。家を汚すな』って。全然容赦なかったってさ」
この話も、怜司が誰かから聞いた噂話に過ぎなかった。
当時は氷点下で、外に出された星乃は凍えるように震え、流れた血もすぐに凍ってしまったという。
そこまで話すと、怜司はどこか哀れむように、それでいて少し楽しげに笑った。
「悠真が星乃をどう思ってたかもう明白だよな。けど、結衣に対しては……海外でちょっと熱を出しただけで、悠真は――」
「もういい。喋りすぎだ」
悠真が低く冷ややかな声で遮った。
「なに照れてんのかよ」
「ねえ結衣、悠真がめっちゃ睨んでくるんだけど、放っておいていいの?」
怜司は軽く笑いながら結衣の方を向いた。
冗談めかして言う怜司に、結衣は口元を押さえて小さく笑ったが何も言わなかった。
悠真の胸の内では、いくつもの感情がせめぎ合っていた。
ちょうどそのとき、怜司がVIP病室の手配を終えたところだった。悠真は無言で書類を受け取り、そのまま手続きのため病室を出ていった。
怜司は悠真の背中を顎で示しながら、結衣に目配せし、小声でささやいた。「ね、結衣のことになると、悠真って誰よりも本気になるんだよ」
その声は、悠真の耳には届かなかった。
悠真は書類を持って階下で支払いを済ませ、結衣のために静かな個室を特別に選んだ。
一通りの手続きを終えた後、ふと星乃のことが頭をよぎった。
気になってスマホを取り出すと、不在着信と一通のメッセージが届いていた。
【星乃様のご家族の方へ。私たちは朝倉聖心病院の医師です。何度かお電話を差し上げましたが繋がらなかったため、こちらにご連絡いたします。星乃様は交通事故に遭われ、ただちに手術の同意が必要です。このメッセージをご覧になりましたら、できるだけ早く病院へお越しください】
病院名――朝倉聖心病院。
今まさに自分がいる場所だった。
悠真は数秒間、無言のままメッセージを見つめ、怜司の話を思い出した。
あの自殺未遂以来、星乃はどこか変わってしまったようだった。
以前はどれだけ拒まれても何度も電話をかけてきたのに、いつの間にか連絡は減っていた。
彼が何日も家に戻らなくても、探しに来ることすらなかった。
今思えば不自然だった。
衝動に駆られたように、悠真は星乃に電話をかけた。
……
その頃、星乃は病院のベッドで、弁護士との離婚相談を終えたばかりだった。
悠真からの着信を見て、一瞬だけ目を見開く。
まさか彼の方から電話をしてくるなんて。今日はもう、連絡が来ないと覚悟していたのに。
結衣が帰国するたび、悠真は心ここにあらずの様子だった。彼がほかの誰かを気にかけるなんて、考えたこともなかった。
しばらく迷った末、星乃は電話を取った。
電話がつながった瞬間、悠真は一瞬言葉を失った。
思わず眉をひそめる。
……やっぱり、これも星奈の駆け引きってわけか。
まさか、自分がそんな手に乗るとは――
とはいえ、今さら電話を切るわけにもいかない。
ひとつ息を整え、低く冷ややかな声で問いかけた。「どこにいる?」
「病院よ」星乃は淡々と答える。
その言葉に悠真は鼻で笑った。
やはり予想通りだった。
彼女の声は落ち着いていて、とても事故に遭ったとは思えなかった。
「事故って聞いたけど、体はどうなんだ」
感情のこもらない口調で言う。
その一言に、星乃は戸惑いを隠せなかった。
……心配、してるの?
これまで、彼が自分の体を気にかけたことなんて一度もなかった。電話をくれることすら、なかったのに。
ほんの一瞬、夢でも見ているのかと思った。
胸の奥が不意に熱くなり、目元にじんわり涙が滲む。
気づけば、小さなお腹にそっと手を添えていた。
もしかして少しは自分のこと……気にしてる?
「少しはよくなったけど……」
彼女は迷っていた。お腹の子のことを今、打ち明けるべきなのかどうか。
けれど悠真の声が先に届いた。「大したことないなら、早く家に帰れ」
「結衣が事故に遭って、医者からは体が弱ってるって言われてる。今は栄養のあるものを食べて、しっかり休ませないとダメなんだ。お前、スープでも作っといてくれ。栄養バランスのいいやつ。そうすりゃ、結衣もすぐ元気になるだろう」
その言葉を聞いた瞬間――温まりかけていた心が、まるで氷水をぶちまけられたように冷え切った。
さっきまで自分が勝手に感じていた彼の「心配」が、急に馬鹿らしく思えてしまった。
かつて悠真が酒に溺れていた頃、星乃は、油の匂いが苦手なのに、料理教室に通って毎日違うスープを作っていた。
感謝されたいわけじゃなかった。ただ、少しでも彼の役に立ちたかった。
なのに、今は当然のように、他の女のためにまたスープを作れと言われる。
星乃は静かに笑った。
あれだけ長く続いた結婚生活は、所詮、茶番だったのかもしれない。
悠真は一日中ずっと結衣のことが気になっていた。彼女が風邪をひいたと聞けば、すぐに飛行機に乗って駆けつける。
その一方で、自分が事故に遭っても、大したことじゃないで片付けられる。
「他の人に任せたら?」星乃は静かに答えた。
「結衣は味にうるさいんだよ。外で作らせても口に合わないんだ」
一瞬だけ目を見開いたあと――ふっと笑う。
「悠真、私はあなたの妻よ。家政婦じゃない」
「どういう意味だ?」悠真は眉をひそめて言った。
「そのままの意味よ」
「そのスープ、私にはもう作れないわ」
それが星乃にとって初めての断りだった。
悠真は眉を寄せ、不快そうに舌打ちをした。
「また嫉妬か? 星乃」
「結衣には俺しか親族がいない。俺が支えなければ、誰も彼女を助けられないんだ」
「それに、お前は奪った側だ。元々その妻の席に座るはずだったのは、結衣なんだぞ」
その言葉が、星乃の胸に重くのしかかった。
何度も、何度も、彼の口から聞かされてきた言葉。
当時、悠真の父親である冬川家の当主は腎不全を患っていて、移植が必要だった。
だが適合する血液型は稀で、唯一一致したのが星乃の母だった。
彼女はある条件付きで腎臓の提供を承諾した。
けれど手術中、事故が起きて、星乃の母は命を落とした。
亡くなる直前、彼女は大勢のマスコミの前で、星乃を悠真に嫁がせることを願い出た。
当時、悠真と結衣はすでに交際していたが、冬川家は世間の圧力に屈して二人を引き離し、悠真と星乃の婚約を強行した。
心を砕かれた結衣は国外へ出た。
その後、星乃の母の遺品を整理していた冬川家の者たちは、彼女のがんの診断書と、あらかじめ書かれていた遺書を見つけた。
すべてが最初から仕組まれたものだったと、世間から激しい非難が寄せられた。
星乃は何度も逃げようとした。婚約を破棄しようとした。
でも母の死を無駄にしたくなかった――
もう少しだけと、自分に言い聞かせながら生きてきた。
けれど、もう我慢する理由なんてない。
きっと母が今の自分を見たら、泣いてしまうだろう。
「だったら、その妻の席は彼女に返すわ」
星乃は弁護士から受け取った離婚届を手にしながら、静かに言った。「悠真――私たち、離婚しましょう」
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