幾千の想いが春風に散る時第1話
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「結婚式から逃げたいの……お願い、助けてくれない?」
病室の中、天野未幸はスマホをぎゅっと握りしめていた。氷のように冷えた指先は真っ白になっている。
まさか人生どん底のこのタイミングで、かつてのライバルに助けを求めることになるなんて、夢にも思わなかった。
電話の向こうからは、くすっと小さな笑い声が聞こえた。
「……は?あれだけ健之のこと好きだったくせに。やっと向こうが結婚しようって言ってきたのに、なんで今さら逃げる気になったわけ?」
未幸は、自分の手首を包む分厚い包帯に目を落とし、力なく笑った。
「……ただ、目が覚めただけよ。
浩史……お願い、助けて。もう、どうしようもないの」
必死なその声に、東雲浩史はしばらく言葉を失った。そしてようやく、短く告げた。
「……帰国したら、迎えに行く。待ってろ」
* * *
「結婚式から逃げたいの……お願い、助けてくれない?」
病室の中、天野未幸(あまの みゆき)はスマホをぎゅっと握りしめていた。氷のように冷えた指先は真っ白になっている。
まさか人生どん底のこのタイミングで、かつてのライバルに助けを求めることになるなんて、夢にも思わなかった。
電話の向こうからは、くすっと小さな笑い声が聞こえた。
「……は?あれだけ健之のこと好きだったくせに。やっと向こうが結婚しようって言ってきたのに、なんで今さら逃げる気になったわけ?」
未幸は、自分の手首を包む分厚い包帯に目を落とし、力なく笑った。
「……ただ、目が覚めただけよ。
浩史……お願い、助けて。もう、どうしようもないの」
必死なその声に、東雲浩史(しののめ ひろし)はしばらく言葉を失った。そしてようやく、短く告げた。
「……帰国したら、迎えに行く。待ってろ」
通話が切れた後、未幸は手首の包帯をじっと見つめた。
三日前、彼女は藤崎健之(ふじさき たけし)の目の前で自殺を図った。
深く切った手首からは大量の血が流れたけれど、運命は彼女をこんなみじめな形でおわらせることさえ、許してくれなかったようだ。
生死の境界をさまよったあの瞬間、すべてがはっきりと見えた。健之を愛したことが、人生最大の過ちだったと。
病室のドアが突然開かれ、ぼんやりとしていた未幸は我に返る。顔を上げると、健之が立っていた。
まさか彼が病院に来るとは思っていなかった。
自殺した日でさえ、健之は救急車に同乗すらしてくれなかったのだから。
「サインしろ」
金縁の眼鏡越しに彼の手が差し出してきた分厚い書類。その表紙に、未幸は自然と目を奪われた。
――婚前契約書。
未幸は書類を受け取り、さっと目を通す。どの項目も、あまりにも一方的で彼女に不利な内容だった。
「夫の私生活への干渉を禁止」、「財産分与なし」、「結婚後は別居」、「離婚時、妻は一切の財産を持ち出せない」……
ひとつひとつの条項が、鋭く彼女の心を刺した。手首の痛みも再びじんわりと蘇る。
しばらく沈黙した後、未幸は皮肉げに笑った。
結婚式が間近に迫り、きっと健之が外で付き合っている「彼女」が、我慢の限界に達したのだろう。
その子をなだめるために、わざわざこの契約書を用意したのだ。
自殺する前にも、この契約書を見たことがあったが、その時ははっきりと拒否した。
けれど、今はもうどうでもよかった。
健之は淡々と言葉を続けた。
「一度口にした約束は守る。だが、お前が雅美とうまくやって、問題を起こさなければな。約束通り、結婚はする」
まるで感情のないような声音。それでも、視線は冷酷だった。
未幸は涙をこらえながら、黙って署名した。
その姿を見て、健之は少し意外そうに付け加えた。
「結婚後は、毎月六千万円の生活費を支給する。不足があれば秘書に言え」
「うん、分かってる」
書類を回収した健之は、ふと未幸の手首に目をやり、一言。
「今日はうちの母の誕生日だ。雅美も来てる。お前の退院手続きは済ませた。あの成人式で自殺騒ぎを起こした件は、水に流すから、雅美の前でちゃんと謝れ」
未幸は目を見開いた。ついさっき看護師から、「退院までは最低あと一週間」と言われたばかりだったのに。
あの日の記憶が、まざまざと脳裏に浮かぶ。唇を噛みしめ、かすれた声で、絞り出すように言った。
「行きたくない……」
健之の顔が一気に険しくなる。
「わがまま言うな。お前に選ぶ自由なんてない。
身支度を整えて、駐車場まで来い」
それだけを言い残し、彼は振り返ることもなく病室を出ていった。
未幸の身体は冷たくこわばり、震える手を必死に握りしめる。そして、涙が、ぽろぽろと頬を伝ってこぼれ落ちた。
……そう、彼女には「選ぶ自由」なんて、最初からなかったのだ。
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