夕風に散る過去第1話
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朝霧澄華(あさぎりすみか)が三十歳の誕生日に願ったのは、海外出張中の久遠雅彦(くおんまさひこ)に会うことだった。
玄関の扉が突然開いたその瞬間——澄華が声を発する暇もなく、彼女は窓ガラスに押し付けられていた。
「雅彦……」振り返った澄華は、息を荒げながら彼を見上げた。「私、三十歳になったの。私たち、もう三年付き合ってる。そろそろ、結婚したいの」
愛し合ったあと、雅彦は煙草をくゆらせながら、優しく澄華を抱き寄せた。
「澄華……俺の事情は分かってるだろ。家の決めた政略結婚には、できるだけ逆らうつもりだ。でも、今はまだタイミングじゃない。安心しろよ、俺はお前なしじゃ生きていけない。それだけは、ずっと変わらないから」
——だが、澄華がこの目で見たのは、雅彦にすでに婚約者がいるという現実だった。しかも彼は、友人の前では澄華のことを「ババア」と嘲笑っていた。その瞬間、澄華の中で何かが音を立てて崩れた。
「お母さん、お見合いの話……してたよね。受けることにする」
雅彦、あなたと私の間には、山と川が隔てているように——二度と交わることはないのよ。
* * *
朝霧澄華(あさぎりすみか)の三十歳の誕生日の願いは、海外出張中の久遠雅彦(くおんまさひこ)に会うことだった。
窓の外では、まるで壊れた堰から一気に水があふれ出すような豪雨が叩きつけている。雨脚は強く、その勢いも激しかった。
澄華は胸の奥に広がる寂しさを必死に押し殺し、ろうそくの火をそっと吹き消すとリビングが闇に包まれた、その瞬間──玄関の扉が勢いよく開いた。
声を上げる間もなく、澄華は誰かに窓ガラスへ押し付けられた。
雨の匂いに混じって、懐かしいシダーウッドの香りがふわりと鼻先をかすめ、胸の鼓動が一気に速くなる。
「飛行機が欠航で、帰れないって言ってたじゃない?」
そう口にしたときには、もう雅彦の手が彼女の腰のラインをなぞるように滑り降りていた。
「お前の三十歳の誕生日だぞ。俺が来ないはずがない。どんなことをしてでも、祝うために帰ってくるさ」
「雅彦……」
振り返った澄華は、息を詰めながら彼を見上げた。「……私、三十歳になったのよ……」
雅彦は彼女の柔らかな唇を親指でそっとなぞり、そのまま抱き上げて寝室へ向かう。
「三十になっても十分若いさ。俺はお前より五つ下だけど、小さいのは年齢だけで、それ以外はもう負けないよ」
男はそのまま彼女を求め、熱く結ばれた瞬間、澄華の白い首筋にダイヤのネックレスをかけた。
「誕生日おめでとう、澄華」
愛を交わしたあと明かりをつけると、リビングには贈り物が山のように積まれていた。
すべて雅彦が持ってきたものだ。
澄華は首にかけられたダイヤのネックレスにそっと触れ、感動を込めて隣で煙草をくゆらす男を見つめた。「雅彦、私たち……もう三年付き合ってるわよね。結婚したいの」
雅彦は煙草を吸う手を止め、火をもみ消すと澄華を強く抱き寄せた。
「澄華……俺の事情は分かってるだろ。家の決めた政略結婚には、できるだけ逆らうつもりだ。でも、今はまだタイミングじゃない。安心しろよ、俺はお前なしじゃ行きていけない。それだけは、ずっと変わらない」
澄華がさらに何かを言おうとしたとき、雅彦の携帯が鳴った。
「雅彦さん、いついらっしゃいます?詩乃様がもうお待ちです」
その声に、雅彦の口調がわずかに軽くなる。「もうすぐ着く。あと十分だけ待たせてくれ」
電話を切ると、ソファの上に置いてあった特別包装の豪華なギフトボックスを手に取り、澄華の額に軽く口づけた。
「ゆっくり休め。用事があるから行ってくる」
雅彦が振り返りもせずにドアを押し開けて出ていく背中を見送り、澄華の胸に小さな痛みが走った。
この嵐の中を戻ってきたのは、本当に自分の誕生日を祝うためだったのか──それとも……
外では雨がさらに激しくなっていた。窓越しに、雅彦が愛車のカリナンを走らせていく姿が見えた。
誰に会いに行くのか確かめたくて、澄華もタクシーを拾い、後を追った。
ミッドナイト・ブルーにて。
「どうしてこんなに遅いのよ?」
「愛しの詩乃に贈るプレゼントを買ってたんだ」
雅彦は精巧なギフトボックスを、店の隅で赤いドレスを着た女に差し出した。
御影詩乃(みかげ しの)は嬉しそうに箱を開ける。「これ……ずっと欲しかったネックレスじゃない! ベルセリア帝国のオークションに出てたやつでしょ? どうして……」
「お前のために、わざわざベルセリア帝国まで行って落としてきたんだ。気に入ったか?」
「ありがとう、雅彦」詩乃は彼の頬に口づけした。「でも、宣伝では端材で作ったお揃いもあるって聞いたけど……あれは?」
「お前には似合わないから、捨てた」
雅彦は詩乃を抱き寄せ、口づけを返す。
個室の友人たちは囃し立て、グラスを掲げて笑った。「なんて甘いんだ! 二人ともお幸せに、早く子ども作れよ!」
ドアの外で立ち尽くす澄華の頬には、すでに涙が伝っていた。雅彦の縁談相手は、かつての初恋の人・詩乃だったのだ。
だから、あれほど縁談を嫌っていた彼が最近になって急に妥協し始めたのか……
澄華は彼が二人の未来のために背負っている重圧だと信じていた。
しかし雅彦は最初から澄華を欺いていたのだ。
澄華は首元のネックレスに触れるとかすかに笑みを浮かべた。
あの「誕生日プレゼント」ですら、詩乃に贈るネックレスのおまけにすぎないのだから。
「雅彦さん、あのメイドは? 一緒じゃないの?」
詩乃が不思議そうに首をかしげる。「メイドって、誰のこと?」
雅彦は淡々と答えた。「別に、大したことじゃない。ずっと俺の世話をしてくれてる女だ」
ドアノブを握る澄華の手にぎゅっと力がこもった。その顔を見るたび、胸が何百本もの刃で切り裂かれるように痛む。
そばにいた誰かが、わざとからかうように言った。「雅彦さん、それはちょっと薄情じゃない?この前、城南のコロッケが食べたいって言ったら、夜中に三つの通りを走って買ってきてくれたじゃないか」
詩乃は雅彦の胸に身を寄せ、片眉を上げる。「へぇ……そんなにしてくれるの?」
雅彦は顔を近づけ、口元に笑みを浮かべた。「妬いてんのか?メイドが俺に尽くすのは当然だろ。それに、あんな年増女、気にすることはない」
澄華の指先は白くなるほど強く握られ、吐息さえ冷たくなった。
聞いているうちに、涙を流しながら笑ってしまう。
雅彦と初めて会ったのは、澄華が十二歳のとき。母が久遠家に住み込みで働き始め、澄華は七歳の雅彦の遊び相手になった。
一緒に積み木を組み、十歳の彼の勉強をそばで見守り、二十歳になった彼と夏の夜に葡萄棚の下で星を数えた──。
雷鳴が途切れることなく轟くある夜、二十二歳の雅彦は、澄華の布団にもぐり込んだ。
一夜の放縦を経て、その快楽を知った彼は、その甘美さにすっかり取り憑かれてしまった。
やがて雅彦は片膝をつき、澄華に向かって誓った。「これから先の俺の人生は、すべてお前のものだ」
こうして二人の三年間にわたる秘密の恋が始まった。その間、雅彦は澄華を誰よりも大事にし、澄華もまた、彼の心には自分しかいないと信じ込んでいた。
「身分なんてどうでもいい。家柄も関係ない。愛しているのはお前だけだ」──そう言ったのも、ほかならぬ雅彦だった。
しかし雅彦の胸の内での澄華は、ただの「メイド」、そして脅威にもならない年増女にすぎなかった。
「こんなふうに飲んでても退屈だわ。ねえ、賭けをしない?」詩乃が楽しげに口を開いた。「メイドって呼べばすぐ来るんでしょ? じゃあ、どれくらいで来るか、時間を当てっこしましょうよ!」
「ねえ、いいでしょ? 雅彦!」
ほろ酔い気分の雅彦は、携帯電話を軽く放り投げながら笑った。「お前が楽しければ、それでいい」
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