叶わなかった願い、待ち人は来なかった第3話
この話は約1789字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
私は遥の投稿に「いいね」を押した。
数分もしないうちに遥から電話がかかってきた。どこか後ろめたそうな声だった。
「寧々、投稿見た?勘違いしないでね。ただふざけて写真を撮ってただけだから」
私は何も答えなかった。遥は慌てて言葉を続ける。
「大丈夫。先生には見えないようにしてあるから」
母が見たら何か思うかもしれない。そのことくらいは、遥にもわかっていたらしい。
でも遥は知らない。母はもう二度と何かを見ることはできない。
電話の向こうで、遥はまだ話し続けていた。
「寧々、清人と意地を張り合うのはやめなよ。私からもちゃんと言っておいたから。今度はもっといい会場を探そう。それで絶対、先生の願いを叶えようよ。先生は私にとってもすごく大切な人だもん」
その言葉を聞いた瞬間、胸が締めつけられた。息をするのさえ苦しかった。
遥も母の教え子だった。
遥の家は息子ばかりを可愛がり、娘である遥にはまともに食事すら与えないことがあった。
母は何度も、誰にも知られないように遥のICカードへお金を入れていた。
高校三年生の頃、家族から学校を辞めて働けと言われた遥のために、母は三度も彼女の家へ足を運んだ。
遥の代わりに怒って、頭を下げて、必死に家族を説得した。
そうしてようやく、遥は学校に通い続けることができたのだ。
あの日、遥は母に抱きついて泣いていた。
「先生……先生のほうが、私の本当のお母さんみたい」
そう言っていた。
なのに今、母が娘のように可愛がってきた遥は、私が用意したブライズメイドのドレスを着て、私の恋人と丸一日遊び歩いていた。
そして、母に見えなければいいだろう、と言う。
遥の声はまだ止まらない。
「寧々、考えすぎだよ。コメントしてる人たちだって、ただふざけてるだけじゃん。嫌なら投稿は消すから。でも清人とは喧嘩しないで。今日はもう、清人もすごく疲れてるんだから」
目の奥がひどく痛んだ。もうこれ以上彼女の一方的な言い分を聞いていたくなかった。
私はそのまま電話を切った。
ソファに座り、母が残したわずかな遺品を眺める。声すら出ないほど泣いた。
どれくらい経ったのだろう。再びスマホの画面が光った。
清人からだった。
【気が済んだなら、帰ってきて謝れ】
【遥が泣いてる。せっかくお前を慰めようとしてくれたのに、その態度はないだろ】
【先生だって、今のお前を見たくはないはずだ】
画面をじっと見つめた。その瞬間、これまでの年月すべてが馬鹿馬鹿しく思えた。
遥が泣けば、一大事。
私の母が死んでも、私はただの恩知らずでわがままな女らしい。
荷造りには三十分もかからなかった。
考えてみれば滑稽な話だった。ここは私と清人が二人で暮らしている家なのに、私よりも遥の物のほうが多い。
浴室、クローゼット、冷蔵庫。家のあちこちに、遥の痕跡が残っている。
寝室のベッド脇の引き出しからは、遥のヘアゴムまで出てきた。
それを手にしたまま、私はしばらく動けなかった。昔のことを思い出す。
遥も清人も、母の教え子だった。
けれど二人は昔から相性が悪く、顔を合わせればすぐに言い合いになった。三言話せば、二言は喧嘩しているような二人だった。
母はいつも料理をよそいながら、呆れたように仲裁していた。
「二人ともいい子なんだから、そんなに喧嘩しないの。清人くんは男の子なんだから、少しくらい遥ちゃんに譲ってあげなさい。遥ちゃんもそんなに意地を張らないの」
そして私にも言った。
「寧々はここの家の子なんだから、二人のことをちゃんともてなしてあげてね」
あの頃は、本当ににぎやかな家だと思っていた。
好きな人と、一番の親友と、母と、みんなで同じ食卓を囲んでいた。
いつからだろう。二人の間に、私だけが入れない何かが生まれていた。
遥が残業で遅くなれば、清人は迎えに行った。
雨の日に遥が傘を忘れれば、私が気づくより先に清人が心配していた。
遥が失恋して酔いつぶれれば、清人は夜中まで話に付き合った。
私が不満を口にするたび、清人は決まってこう言った。
「遥はお前の親友だろ。お前の友達だから、俺だって気にかけてるだけだ。それなのに遥に嫉妬するのか?寧々、心狭すぎるだろ」
遥も目を赤くして言った。
「寧々……もう私とは友達でいたくないの?」
そう言われるたび、結局謝るのは私だった。
恋人を失うのが怖かった。親友を失うのも怖かった。そして何より、母に心配をかけたくなかった。
だが結局私は何一つ守れなかった。
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