叶わなかった願い、待ち人は来なかった第1話
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母は末期がんだった。最後の願いは、一度でいいから、私がウェディングドレスを着た姿を見ること。
私は恋人の賀川清人(かがわ きよと)と親友の佐倉遥(さくら はるか)に何度も何度も頭を下げた。しつこいくらい頼み込んで、ようやく二人は、母の最期の願いを叶えるための「偽の結婚式」に付き合ってくれることになった。
結婚式当日、母は最後の力を振り絞って待ち続けた。目が虚ろになるまでずっと。
それなのに清人は来なかった。付き添いを頼んでいた遥も来なかった。
そんな中、遥がSNSに写真を投稿した。
新郎衣装を着た清人と、ドレスアップした遥。二人はケーキを前にして、まぶしいほど楽しそうに笑っていた。
【親友の結婚式、緊張しすぎて無理!新郎さんがわざわざ街の反対側までケーキを買いに付き合ってくれた!こんな優しい彼氏がいるなんて、寧々は幸せ者だね】
位置情報には、人気のケーキ店の名前が表示されていた。
私は震える手で電話をかけた。問い詰めると、清人は悪びれもせず、軽い口調で言った。
「お前のお母さんの願いを叶えるためなんだろ?遥が緊張してたから、ちょっと気分転換させてただけ。そっちのほうが本番もうまく演じられるだろ」
すると遥まで電話口に割り込んできて、笑いながら言った。
「そうだよ寧々。ちょっとからかっただけ。すぐ戻るって。先生にももう少し待っててもらってよ」
その瞬間ようやくわかった。私が必死になって何度も頭を下げたことも、母の最期の願いも。
母の教え子であるこの二人にとってはどうでもいい、ただの冗談だったのだ。
私は一直線になった心電図を見つめた。涙で何も見えなくなった。
こんな馬鹿げたことは終わりにしよう。今後はもう私は一人でいい。
これからは二人とは関わらない。そして私自身もようやく解放してあげることにした。
* * *
病院で必要な手続きをすべて終え、私は急ごしらえの小さな式場へ戻った。
招待客はとっくに一人残らず帰っていた。
正面の壁には、大きな紅白の飾りが貼られている。昨夜、私が一つずつ飾ったものだ。
母は言っていた。
「お祝いの飾りは、曲がらないようにちゃんと貼るのよ。そうすれば、これからの人生もうまくいくから」
テーブルには、母が選んだウェディングケーキが残されていた。時間が経ち、クリームは少し溶けて崩れている。
ぐちゃぐちゃになったその姿は、今の私の心そのものに見えた。
ウェディングドレスを脱ぎ、何も考えられないまま後片付けを始める。
半分ほど片づけた頃、ようやく清人と遥が姿を現した。
二人の手には、あの人気ケーキ店の紙袋が提げられていた。
「寧々、お待たせ!先生のために低糖質のケーキを選んできたの。ここの一番人気で……」
明るく響いていた遥の声が途中で止まった。閑散とした会場を見回し、驚いた顔をする。
「みんなは?結婚式やるんじゃなかったの?なんで誰もいないの?」
清人も眉をひそめた。
「寧々、遥が聞いてるだろ。みんなどこに行ったんだよ?」
私は答えなかった。
さすがに何かがおかしいと感じたのか、遥が恐る恐る取り繕うように言った。
「寧々、もしかして先生、怒ってる?ごめんね。私がちゃんと時間を考えてなかったせいだよ。清人も、私のケーキ選びに付き合ってくれたから遅くなっただけで……」
遥が言い終えるより先に清人が口を挟んだ。だが私ではなく、遥を慰める。
「遥が気にすることないって。先生はあんなに優しい人なんだから、事情を知ったって俺たちを責めたりしないよ」
その一言が、針のように胸へ突き刺さった。目の奥が熱くなる。
母が清人を責めるはずなんてない。
最期の瞬間まで、二人が来ない理由を代わりに考えてあげていたくらいなのだから。
十年前、清人の両親が離婚騒ぎを起こし、誰も彼の面倒を見ていなかった頃のことだ。
清人は胃に穴が開くほど体調を崩し、激痛で意識を失った。
大雨の中、彼を病院まで運んだのは母だった。
病院では最初に入院保証金を求められた。母は迷うことなく、自分の給料二か月分を立て替えた。
それでも清人に負い目を感じさせたくなかったのだろう。母は笑って言った。
「私はあなたの先生なんだから、これくらい当然よ。そんなに気にしないの。清人くんは将来、大物になるんだから。そのときに返してくれればいいわ」
病室のベッドに横たわった清人は、母の手を握りしめて、長いこと泣いていた。そして必ず一生かけて恩返しすると誓った。
それから清人は、頻繁にうちへ顔を出すようになった。
年末年始やお盆など、節目の日には真っ先にやって来る。母が病気になったときには、私以上に慌てていたほどだ。周囲からも、本当の息子みたいに親孝行だと褒められていた。
なのに、母のための最後の芝居だけは、まともに演じてくれなかった。
私は脱いだウェディングドレスを椅子の上に放った。
自分のものとは思えないほど、かすれた声が出る。
「結婚式はもうやらない。これから先もする必要はないから」
清人は一瞬、呆気に取られた。だがすぐに顔を冷たく歪め、鼻で笑った。
「寧々、どういう意味だよ?」
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