元夫の命令?即再婚第3話
この話は約2151字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
車の中で、ギプスを外して間もない自分の脚を見下ろし、私はふと、ひどく自分に申し訳ない気持ちになった。
今回のレースだって、本当は出るつもりなんてなかった。宗一郎が珍しく低姿勢で、「クラブの評判に関わるから」と言ってきたからだ。
数日前に風邪を引いて、頭痛がひどく、薬も飲んでいた。
レースは心臓にも体力にも大きな負担がかかる。そんな状態で走れば危険なのは分かっていたし、だからこそ、あんな事故が起きた。
それなのに――
私が命を削って手に入れた順位は、彼が新しい女の機嫌を取るための、ただの小道具に過ぎなかった。
私は離婚届受理証明書をスマホで撮り、そのまま梓に送った。
梓は「川沿いで気分転換しよう」と誘ってくれた。
現地に着いて、すぐに分かった。彼女、ずいぶんたくさん友達を呼んでいて、どうやらバイクで走るつもりらしい。
人影の少ない川沿いの広い道に、目を疑うほど高価そうなレース仕様のバイクが並び、若い男女があちこちで笑い合っていた。
私は足を止める。「……まだ脚、完全に治ってないんだけど」
「誰が運転しろって言ったのよ。ほら、男の人がこんなにいるじゃない」
そこで初めて、ルールを聞いた。男性が一人につき、女性を一人選び、同じバイクに二人乗りするらしい。
もともとカップルで来ている組も多く、実際に余っている独身はそれほど多くなかった。
梓が私を端に引っ張り、小声で言う。「晃さんはどう?普段誘っても全然来ないのに、今日はついてるよ」
黒沢晃(くろさわ あきら)は背の高い男だった。ライダースーツのまま、川沿いの柵にもたれ、背中を向けて立っている。肩に陽が落ち、その佇まいは、すっと潔かった。
ゆっくり振り返ったその顔を見て、私は思わず目を見開いた。驚くほど、私の好みに合っている。
梓は間髪入れず、私を前に押し出した。「晃さん、柚葉お願いできる?」
彼は軽く微笑み、澄んだ目で私を見て、低く落ち着いた声で言った。「いいよ」
梓がこっそり、私にウインクする。「せっかくのチャンスなんだから、大事にしなよ」
晃はピンク色のヘルメットを取り出し、傷や留め具を一つずつ確認してから、私の頭にそっと被せた。顎ひもを調整し、最後に軽く引いて、きちんと固定されているか確かめる。
「怖い?」
その瞬間、ふと思い出した。宗一郎と一緒になってから、私は何度もレースに出たけれど、こんなふうに扱われたことは一度もなかった。
彼はいつも遠く、観客席の高い場所に立ち、ほかのクラブのオーナーや、いわゆる上流階級の人間たちと話していた。
私の装備がちゃんと点検されているかなんて、気にも留めない。彼が見るのは結果だけ。どれだけ見栄えのいい順位を持ち帰れるか、どれだけ利益になるか、それだけだった。
胸の奥が、ほんの一瞬だけ、そっと揺れた。
私は小さく首を振る。
「大丈夫。一応、プロのレーサーだから。ただ、バイクはあまり乗らないけど」
晃は少し意外そうな顔をして、声を弾ませた。
「それなら、ちょうどいい。全開でいく、しっかり掴まって」
速度も衝撃も、私は嫌というほど知っている。反射的に、晃の腰に腕を回した。
エンジンが唸り、バイクが跳ねる。ゆったりしたライダースーツの下、彼の腰は細いのに芯が強く、腹の硬さまで伝わってきた。
見た目の静けさとは裏腹に、晃の走りは容赦がない。気づけば、前を塞いでいた相手を次々と置き去りにしていた。
自分で走ることはあっても、誰かに連れられて飛ばすのは、これが初めてだった。
風が耳元で鳴り、晃の体からは、杉のような澄んだ匂いがする。冷たくて、それでいて不思議と落ち着く。
晃が、笑みを含んだ声で言う。「力、抜いて。そんなにきつく――」
そのときになって、自分の腕が彼を締め上げていることに気づいた。これじゃ、息もしづらい。
言いたいことは分かっているのに、なぜか余計な想像が頭をよぎって、私は気まずくなり、慌てて力を緩めた。
その瞬間、前方が急カーブになる。顔が一気に晃の背に押しつけられ、薄いシャツ越しに体温が伝わった。頬が赤くなっているのも、きっと気づかれたはずだ。
案の定、私たちは一位だった。
景品は、まさかのビール一箱。
私は一本開け、晃に向かって軽く掲げる。
レーサーは基本、酒を口にしない。私も酒には弱い。でも今日は、もう独り身だ。嬉しくて、そのまま喉に流し込んだ。
飲み切った瞬間――終わった。
視界がぐるりと回る中、晃の手がすぐに私を支えた。
梓が「あっ」と声を上げ、「晃さん、柚葉あんまり強くないんだ。送ってくれる?」と頼む。
酔いで焦点の合わない目のまま、私は晃を見上げた。ちょうど、視線が重なる。
晃の目が、やけに優しい。逃げ場がなかった。
「いいよ」
声が、ずるいくらいにいい。
胸の奥が、とろりと溶けた。
宗一郎は昔、私みたいな女は色気がないと言った。顔だけ整っていても、喋れば男が逃げる、と。
私は仕事に打ち込み、認めさせようとしてきた。けれど返ってきたのは、宗一郎が、男受けのいい女の子たちを連れてきて、私の目の前でひらひらさせる光景ばかりだった。
こんなふうに見つめられたのは、いつぶりだろう。大切にされている気がして、息が詰まりそうになる。
バイクを降りるとき、私は彼の首に腕を回したまま、なぜかつま先立ちになり、晃の顎に、そっとキスを落としていた。
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