偽装離婚の罠と私の逆襲第1話
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篠原昂(しのはら こう)の秘書が、またうつ病を再発させたらしい。
彼は離婚協議書を突き出してきた。
「ただの手続きだ。彼女の具合が良くなったら、すぐに復縁しよう」
私は紙の束を手に取り、数ページめくってから彼を見上げた。
「私に、身一つで出て行けってこと?」
彼はあからさまに眉をひそめた。
「ただの偽装離婚だろ。そんな細かいことまでいちいち口出しするなよ」
私は微笑んだまま無言で、静かに自分の名前を書き込んだ。
橘凛(たちばな りん)。
彼には到底分からないだろう。私がこの日を、どれほど長く待ち望んでいたかなど。
* * *
篠原昂(しのはら こう)の秘書が、またうつ病を再発させたらしい。
彼は離婚協議書を突き出してきた。
「ただの手続きだ。彼女の具合が良くなったら、すぐに復縁しよう」
私は紙の束を手に取り、数ページめくってから彼を見上げた。
「私に、身一つで出て行けってこと?」
彼はあからさまに眉をひそめた。
「ただの偽装離婚だろ。そんな細かいことまでいちいち口出しするなよ」
私は微笑んだまま無言で、静かに自分の名前を書き込んだ。
橘凛(たちばな りん)。
彼には到底分からないだろう。私がこの日を、どれほど長く待ち望んでいたかなど。
私がサインを終えると、昂はあからさまに安堵の息を吐き、久しく見ていなかった笑みを浮かべた。
「凛、心配するな。これはただの形式的なものだ。彼女が母さんの遠い親戚じゃなかったら、俺だってこんな面倒なことしないさ」
私は頷き、分かったと笑顔を作った。
踵を返して寝室に戻り、荷物をまとめ始めると、彼は不意を突かれたように尋ねてきた。
「何してるんだ?出て行けなんて言ってないぞ。だいたい、お前に行く当てなんてないだろ?」
私はキャリーケースのジッパーを閉め、淡々と返した。
「芝居をするなら徹底的にやらないと。森本結衣(もりもと ゆい)にバレて、病状が悪化したら大変じゃない」
彼の顔が一瞬引きつったが、すぐに気を取り直して調子を合わせた。
「……それもそうだな」
彼がさらに何かを言いかけた時、特定の相手を知らせる着信音が鳴り響いた。
「急な仕事の連絡だ。電話に出るから、後で送っていくよ」
ベランダに出た彼の表情は、電話に出た瞬間にひどく甘いものへと変わった。
その顔は、かつて私と恋人同士だった頃の彼と同じだった。
私が荷物をまとめ終えても、彼はまだベランダで相手をなだめている。どうしようもないと呆れつつも、とろけるような愛情が滲み出ていた。
私は静かに家を出て、親友にメッセージを送った。
道端で迎えを待つ間、昂との過去が脳裏をよぎった。
大学時代からの四年間の交際、そして六年に及ぶ結婚生活。
一生を共に歩んでいける相手に出会えたのだと信じて疑わなかった。
彼のために公務員という安定した職を捨て、実家から遠く離れた青葉市(あおばし)という見知らぬ土地へやって来て、身を粉にして働いた。
家族や友人は皆、私がどうかしてしまったと呆れていた。
当の彼は涙を流して感動し、絶対に後悔はさせないと誓ってくれたというのに。
夫婦で数年間必死に働き、私の全貯金と結婚資金を注ぎ込んで、ようやくこの街にマンションを購入した。
彼が会社の組織再編で減給されたと言った時も、毎月の住宅ローンの大部分を私が負担した。
夫婦は互いに支え合うものであり、そこまできっちり金銭の計算をする必要はないと思っていたからだ。
ある日の夜、ふと思い立って彼にサプライズでプレゼントを届けに行くまでは。
飲み屋の個室から、友人が彼をからかう声が聞こえてきた。
「昂さん、さすがっすね!昇進に加えて昇給、前のプロジェクトのボーナスも合わせたら、今や年収二千万円じゃないですか!家にはしっかり者の奥さんがいて、外には若い子を囲ってるなんて、まさに人生の勝ち組っすよ!」
その瞬間、頭を強く殴られたような衝撃を受け、目の前が真っ白になった。それがただの悪ふざけであってほしいと、どれほど願ったことか。
しかし、陰に隠れていた私の耳に、彼の声がはっきりと届いたのだ。
「男なんて、結局求めるものはみんな同じさ。お前もそのうち分かる。だが口は硬くしておけよ。うちの嫁に知られたら、面倒なことになるからな」
あの日、自分がどうやってその場を離れたのか覚えていない。気がつくと、涙を流しながら夜の街に立ち尽くしていた。
その日から、私は彼を注意深く観察するようになった。
かつては気にも留めなかった細かな変化が、すべて浮き彫りになっていった。
以前は全く運動しなかった彼がジムに通い始めたこと。接待から帰るたびに漂う香水の匂い。そして頻繁な「出張」。
彼が眠っている隙に、私は彼名義の口座や財産を調べ始めた。
調べれば調べるほど、心が冷え切っていった。
家庭を維持するため、私は欲しいものを何度も我慢し、季節が変わっても新しい服を買うのを躊躇い、毎月のローン返済に頭を悩ませていたというのに。
彼は愛人に何十万もするプレゼントを貢ぎ、高級クラブで一晩に何十万も散財していたのだ。
彼は私のことを鈍感で愚かな女だと見下し、どんどん図に乗っていったのだろう。
そして今、秘書の森本結衣が彼の子を身ごもった。
だからこそ、こんなにも見え透いた滑稽な口実で、私を追い出そうとしているのだ。
実のところ、私もこの日が来るのを、ずっと待ち望んでいた。
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