さよならを手紙にかえて第3話
この話は約2318字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
翌日の夕方、楓は予定通り音楽ホールに到着した。舞台のいちばん目立つ場所には、美波のピアノがすでに置かれている。
最初はリハーサルのためかと思い、特に気にしなかった。自分の演奏会なのに、美波がそこまで目立とうとするとは思っていなかった。
ところが、そのピアノは開演しても片付けられなかった。楓が美波に問いただそうとした瞬間、スタッフに連れられて楽屋に閉じ込められてしまう。
やっと解放されたときには、演奏会はすでに終わりかけていた。
急いでスタッフに自分のチェロをステージまで運ばせると、舞台に立った瞬間、観客席から怒号が飛んできた。
「返金しろ!返金しろ!」
怒号とブーイングの嵐が矢のように楓の心を貫く。ふと見ると、律のために用意していた特別席は、すでに誰もいなかった。
何ヶ月も準備してきた演奏会は、あっけなくめちゃくちゃにされた。楓はただ、ファンに申し訳ないという気持ちでいっぱいだった。
警備員に守られながら、なんとか暴徒と化した観客の中を抜けて帰宅した。
玄関のドアを開けると、家の中は真っ暗で、空気がひどく冷えきっていた。
律はソファに深く腰掛けて、目の奥は真っ暗で何も見えなかった。律をよく知る人間なら、今この人が本気で怒っているのがわかる。賢い人なら絶対に近づかないはずだ。「お前、俺の書類を動かしたか?」
楓は一歩も引かず、素直にうなずいた。
律は一瞬驚き、そして皮肉な笑みを浮かべた。「知ってもどうせ無駄だ。お前はただの政略結婚の道具、死んでも美波には勝てない」
楓は静かに律を見つめ返して、何も言わなかった。
律は一瞬だけ戸惑いを見せたが、その時、主寝室のドアが勢いよく開いた。
美波が楓のパジャマを着て、眠そうに目をこすりながら出てきた。
楓はふと思い出した。律は小さい頃から、何もかも手に入れてきた人間で、他人の気持ちなんて気にしたことがなかった。
だから、楓が重い病で寝込んでいたときでさえ、律は平気で家でパーティーを開いていた。
「頭が痛い」と訴えても、律はただ一言――「俺には関係ない」
それなのに今は、美波が寝ているからと家中の電気を全部消し、誰にも声を出すなと命じている。
律は面倒くさそうに手で合図し、楓に命じた。その顔には、楓が悔しそうに表情を歪めるのを期待している色が浮かんでいた。「今夜は美波がここで夕飯を食べていく。用意しろ」
でも、楓は律が期待しているようには怒らない。ただ、おとなしく立ち上がり、キッチンへ向かった。
楓の背中が遠ざかっていくのを見送りながら、律は無意識に自分の指先をさすっていた。さっき感じた、言葉にできない違和感がまた胸に浮かぶ。
女を家にまで連れ帰っても、楓は文句ひとつ言わずに料理を作る。こんなにも自分に尽くしてくれるなんて、もしかしたら美波への愛よりも、楓の献身のほうがずっと無償なんじゃないか――そんな思いが、ふと頭をよぎった。
キッチンで、楓は慣れた手つきで食材を取り出し、洗って切り始める。数年前まで包丁すら握ったことのないお嬢様だったなんて、今の楓からは誰にも想像できない。
「楓さん、私も手伝うね」
楓の手にあった包丁が、突然奪われた。美波は無害そうにふわりと笑うと、次の瞬間には包丁の刃先を自分の腕へ向けていた。
白い腕に、瞬く間に赤い血がにじむ。
楓が反応するより早く、すさまじい力が横から飛び込んできて、美波の手から包丁をはじき飛ばした。
包丁は弧を描いて飛び、楓の顔すれすれをかすめて壁に突き刺さった。
心臓が一瞬止まったみたいだった。遅れて、鋭い痛みが頬を走る。そこから温かいものがすっと流れ落ちていく感覚がした。
ようやく律がこちらに気づき、楓を見て一瞬だけ罪悪感を浮かべた。「悪い、楓。わざとじゃない」
楓が何か言おうとしたとき、美波が口をはさんだ。
「律くん、私、ただ楓さんと一緒にご飯作りたかっただけなのに、彼女……」言葉を途中で止めたが、その表情だけで何もかも伝わる。
律の罪悪感はすぐに消え、冷たい声に戻る。「つまり、お前が美波をわざと傷つけたってことか?」
楓が弁解する間もなく、後ろで律が壁に刺さった包丁を抜き取った。律は奥歯を噛みしめて、じっと楓を睨んだ。
「たかが、お前の演奏会で何曲か弾かせてもらっただけで、まさか人を傷つけてまで仕返しするとはな」
楓は必死に否定する。「違う、私じゃない。彼女が自分で」
律は鼻で笑う。「美波はピアニストだぞ。一番大事にしてるのは自分の手だ。そんな美波が、自分で自分を傷つけるなんて、信じろっていうのか?」
楓は負けじと顔を上げ、律の目をまっすぐ見つめて、もう一度はっきりと言った。「そう。彼女が自分でやった」
楓は大きく息を吸い込んでから言った。「私もチェリストだよ。もし私が、自分の手を平気で傷つけられる人間だったら……そのときは、私の言うことを信じてくれる?」
楓は、律に誤解されても別に気にしない。でもだからといって、好き勝手に罪をなすりつけられていいわけじゃなかった。
律は言葉を失った。まさか楓がそんなことを言うとは思っていなかったのだ。「お前……」
律が反応するより早く、楓は包丁をつかみ上げ、歯を食いしばって自分の手のひらに刃を走らせた。
血が床にしたたり落ちる。
律があわてて手を伸ばした瞬間、美波が言った。
「楓さん、そんなことしなくていいのに。私を傷つけるために、自分まで傷つけるなんて」
その言葉と同時に、律の表情はみるみる冷え込んだ。
刃先がわずかに震え、楓は絶望のままそっと目を閉じた。
激しい痛みに襲われて、楓の意識はゆっくりと遠のいていく。完全に意識が落ちる直前、律の冷たい声が耳に届いた。
「美波を真似してなかったら、お前なんか見向きすると思うか?」
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