あの夜、すべてを終わらせた第1話
この話は約3139字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
結婚したその日に、私は社長である夫・葛城祐介(かつらぎ ゆうすけ)にこう言った。
「あなたが他の人を好きになっても構わない。ただ、その騒ぎが私に及ぶなら、もうあなたとは会わないようにするから」
だからその後、祐介が学校の先生・野口沙耶香(のぐち さやか)のことが好きになっても、彼女を別の場所に隠すだけで、私には知られないようにしていた。
そして沙耶香にも欲しいものは何でも与えたけど、私の前にだけは姿を見せるなと、きつく言いつけていた。
でも、沙耶香は祐介に甘やかされているのをいいことに、彼の言いつけを守らなかった。そして、妊娠した大きなお腹抱えて私の前に現れると、見せつけるようにこう言ったのだ。
「祐介さん本人があなたのことなんて愛したことないって、結婚したのも奥山家のためだって言っていましたよ。
自分の立場が分かっているなら、さっさと子供をおろして離婚したらどうです?じゃないと、祐介さんに捨てられたら、慰謝料は一銭も手に入らなくなりますよ!」
それを聞いて私は微笑んで、父にメッセージを送った。
【葛城家への投資は、すべて引き揚げて!私、離婚するから】
* * *
葛城莉緒(かつらぎ りお)は、ネイルサロンの特別ルームに座っていた。でも、店員は気まずそうな顔でこう言った。「葛城さん、こちらのカードですが、残高が足りないようでして……」
莉緒はきょとんとした。先月、夫の葛城祐介(かつらぎ ゆうすけ)がこのカードをくれた時、たしか60万円入っていると言っていたのに。
しかも、それを使うのが今日が初めてなのに。
そこで店員に履歴を調べてもらうと,こう言われた。「葛城さん、先週の木曜の午後に、56万円のご利用がございました」
「先週の木曜日?56万円?」莉緒は思わず指を止めた。「その日、私は一日中、会社にいましたけど」
店員は口ごもった。「は、はい。ご主人が、ある女性の方をお連れになったんです。お帰りの際に、その女性が店員の一人へのチップだと言ってお支払いをされて行かれました」
それを聞いて、莉緒の心臓が急にどきどきして、耳鳴りがした。
先週の木曜日、祐介は大事なクライアントと会うと言っていた。家に帰ってきたのは夜の8時過ぎで、接待が長引いて疲れたと愚痴っていたはずだ。
自分はそれを聞いて、わざわざ会議を早く切り上げて、彼のために酔い覚ましのスープまで作ってあげたのに。
「防犯カメラ、見せてください」莉緒の声はか細く、気持ちが重く沈んでいった。
そして防犯カメラの映像には、祐介が水色のワンピースを着た女の肩を抱いて入ってくる姿が映っていた。
女が祐介を見上げて何かを言うと、彼は愛おしそうに彼女の髪を撫でた。
莉緒は呆然とした。その親密な仕草は、まるで二人が付き合いたての若いカップルのように見えた。
もし、祐介が自分の夫でなければ、それは何とも微笑ましい光景だっただろう。
そう思っていると、突然、映像の中の祐介が店員に何か言われ、ひざまずくと、その女の足にペディキュアを塗り始めた。
それだけじゃない。塗り終わった後、彼は愛おしそうに女の足を両手で包み込んで、キスまでしたのだ。
それを目にした莉緒は全身の血が凍りついた。あのプライドの高い祐介が、他の女のためにひざまずいてペディキュアを塗るなんて。
しかもあの夜、家に帰ってきた彼は、他の女の足にキスしたその口で、自分にキスしたのだ。
そう気が付いた莉緒はこみ上げてくる吐き気を抑えきれなかった。
そして映像は続いた。祐介はずっと女の子のそばにいて、帰り際には当たり前のように彼女の白いハンドバッグを持ってあげていた。
莉緒は画面を食い入るように見つめた。そのバッグは、自分のクローゼットにあるものと全く同じだった。
あれは先週、祐介が出張から帰ってきた時にわざわざプレゼントしてくれたものだった。今考えればプレゼントをもらったのは自分だけじゃなかったようだ。
「この映像、私のメールアドレスに送ってください」そこまで見て莉緒は立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかった。それでも、彼女はなんとかバッグを掴んで店を飛び出した。
家に帰ると、彼女はまっすぐ書斎に駆け込んだ。
震える指で、私立探偵に電話をかけて言った。「祐介の最近の行動を全部調べて、報告してちょうだい」
3時間後、メールボックスに数十枚の写真が届いた。
それは祐介と野口沙耶香(のぐち さやか)という女がスーパーで買い物をしていたり、映画館で恋人つなぎをしていたりしているものだった。
そして何よりショックだったのは、その中には婚姻届の写真まであった。日付を見ると、二人が「結婚」して、もう1年以上も経っていた。
莉緒は震えが止まらなかった。
彼女は結婚式の日、目の前でひざまずいて誓った祐介の言葉を思い出した。「莉緒、一生君を裏切らないと誓うよ」
この男の一生って、こんなに短かったのね。
そう思っていると突然スマホが震えた。探偵からの追加情報だ。【野口沙耶香、24歳、私立中学教師、婚姻届は祐介さんが知人に頼んで偽造させた書類です。彼は毎週水曜と金曜の午後、野口さんのマンションを訪れています】
莉緒は震える手で電話をかけた。「お父さん、葛城グループの、あの新エネルギー事業から資金を引き揚げたら……」
「どうしたんだ?」父親の奥山慎吾(おくやま しんご)の声が、とたんに険しくなった。「祐介にいじめられたのか?」
この一言で、莉緒は崩れ落ちそうになった。
結婚式で、父は目を赤くしながら自分の手を祐介に託した。「もし莉緒を悲しませることがあれば、あなたをこの業界で生きていけなくしてやるからな」
「祐介が……」そう思い返して、莉緒は喉に何かが詰まったようで、声が出ないのだ。同時に去年、自分が肺炎で高熱を出した時、祐介は夜通し自分を背負って救急病院へ走り、ベッドのそばで3日3晩、看病してくれたことを思い出した。
自分のためにあんなに必死になってくれた人が、どうして他の女と「結婚」なんてしてるの?
「ううん、まだ何でもないの」莉緒は手の甲を強く噛んで、嗚咽をこらえた。「また連絡するから」
その電話を切ると、ガレージのドアが開く音が聞こえた。
祐介が入ってきた。彼は手には書類の入った封筒を持ち、いつもと変わらない優しい笑顔を浮かべていた。「今日は早かったんだね」
「うん、ネイルサロンに行ってたの」莉緒は手を差し出して見せた。「あなたがくれたカードでね」
その瞬間、祐介の体がこわばった。すぐに平静を装ったけど、莉緒にははっきりとわかった。
「そういえば」彼女はわざとさりげなく尋ねた。「店員さんが言ってたけど、先週の木曜日、あなたが女の子を連れてきたって」
それを聞いて祐介は一瞬、固まった。そして、慎重に莉緒の表情をうかがった。
莉緒が普段と変わらない顔をしているのを見て、彼は安心したように優しく微笑んだ。「ああ、隣の太田さんの娘さんだよ。ネイルサロンに行きたいけど、一人じゃ心細いって言うから、君がよく行く店を紹介してあげたんだ」
そう言いながら祐介は歩み寄ってきて、莉緒を抱きしめた。「お腹すいたろ?俺がご飯作るよ」
キッチンへ向かう夫の後ろ姿を見つめながら、莉緒の胸は苦しくなった。
もし自分が気づかなかったら、この人は永遠に自分を騙し続けるつもりだったんだろうか?
莉緒はスマホを手に取り、父親にメッセージを送った。【来週、葛城家への投資は、すべて引き揚げて!私、離婚するから】
送り終えると、彼女はキッチンに目を向けた。
そこで、祐介は手際よく野菜を切っていた。
この1年ちょっと、きっとあの女の家で、こうして料理の腕を磨いてきたわけね。
莉緒はすっと立ち上がると、結婚指輪を外してリビングのテーブルに置いた。そして、寝室へと向かった。
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)